喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

ビビりを受け入れ、生きていきたい。

年齢を重ねるにつれて、ますますビビりになってきている気がする。

 

小さい頃なんかは、よく近所で虫を捕まえて遊んだものだが、今やクモ1匹にも身構える始末。なんというか、「こちらに襲いかかって来たらどうしよう」という己の想像が恐怖心を煽っているように思う。「無邪気」という言葉では片付けられない強さが、あの頃の私にはあったと思う。

 

それが今はどうだろう。「カワイイ女の子と遊びたい」、「モテたい」、「ブログで金を儲けたい」、「朝までパーティーしたい」。こんなことばかり考えている。「無邪気」という言葉では片付けられないクズっぷりである。

 

こんな男がクモと対面したときは、へっぴり腰の内股ぎみでティッシュの箱をブンブン振り回しているのだから、普通に考えてモテるはずがないのだ。いっそのこと、虫を退治するこの私の姿をフィギュアにして、一獲千金を狙いたい。そして、ちやほやされたい。

 

あのフィギュアの人だ、と。そして私の親は、「あのフィギュアの親」になり、このブログは「あのフィギュアの人のブログ」になる。

 

名誉があるとは言い難いが、こんな人生も悪くはないだろう。

 

ここからは、ビビっている人の姿をフィギュアにして、さらに成功したい。

 

ビビると言っても、ヤンキーに絡まれてビビっている姿は、あまり面白みがない。ビビッて当たり前だし、そういう状況下に陥っている人を見ても、見てる側はホッコリとした気分にはならない。危機的状況すぎる。

 

「虫にビビる」くらいがちょうどいい。

 

こうなると、ひとまずの広げ方として、虫へのビビり方にバリエーションを持たせる方法があるだろう。

 

ひとつが、先ほども書いた「へっぴり腰の内股で、ティッシュ箱ぶんぶん」。これはなかなかリアリティがあって良いのではないだろうか。

 

他、よくあるところでいくと、顔の近くに蚊がブゥ~ンと飛んできたとき、二重アゴになりながら手をパタパタとして追い払う姿だろう。世界中の誰もが経験したことがある故、言葉の壁を超えそうな勢いがある。ただ、ジャングルに住む民族などは、虫との共存度合いが我われと一線を画しているため、共感を得られないかもしれない。人間離れした動体視力で虫をヒョイと捕まえ、自然に返しそうだ。

 

また、こんなものはどうだろう。公園で遊ぶ子供が虫を捕まえた。捕まえた喜びを伝えたい、そして、この捕まえた虫を自慢しようと、お母さんに見せる。虫が大嫌いなお母さんは、眉間にシワをよせ、「見せなくていいから」と拒否する。この時、なぜか「お母さんは虫が苦手だからやめて」としっかり伝える光景が少ないように思う。だが、仮にしっかり伝えても、なぜ虫が苦手なのか子供には理解できないだろう。私もなぜ虫が怖くなってしまったのか分からないのだから。

 

このように、笑顔な子供に対して、嫌悪感を抱く親の顔。親子のハートウォーミングな時間に「虫」という生物が入っただけで、途端に「大人と子供」という壁が立ちはだかる。なかなか深みのあるフィギュアではないだろうか。

 

 

なんとか「ビビり」を商売にできないものだろうか。