気付いたら、だいぶ休んでますね、コレ。
まず初めに、この度は大変申し訳ございませんでした。
もちろん私は気づいております。この手の謝罪の際は、誰に対して、そして、何についてお詫びしているのかを明確にしなければいけないことを。
さらに、このあたりを”あやふや”にしてしまうと、謝罪相手からは「そもそもお前は、お前自身の何が悪かったかを理解しているのか」と言われかねません。
確かに、真にそのあたりを理解できていない人間は、次に活かせる反省点を見出すことすらできない、と私自身も認識しております。
ではなぜ、このように謝罪しているのかを簡単にご説明したいと思います。
いきなり矛盾するようなことを言ってしまいますが、私は自分自身には、なんの落ち度も感じておりません。どんなに自分自身の言動を思い起こしても、この場で腰を据えて謝罪するようなことは見つかりません。
ですが思ったのです。私自身には悪気のない言動によって、誰かしらに何かしらの不快感や怒りを与えてしまっている可能性があるのではないかと。
しかしながら、自分では自分の何が他人にマイナスの影響を与えてしまっているのかが分からない実状があります。
そうすると当然ながら、誰に何を謝れば良いのかが分からないということになってしまいます。もっと言うと、それが謝るべきことであるかすら分かりません。
その中で、自分が逆の立場になったときを想像すると、確かに日常生活では、謝ってほしいとは思わないまでも、それなりに回復に時間を要する出来事が無いとは言えません。
これらを総合的にみて、いま自分ができる最善策は何かと考えたとき、誰に対してでもなく、そして、何についてでもなく、ひとまず謝罪の意をしたためるようと思ったしだいであります。
そして、改めて実感したのです。私は、自分が意図しないところで誰かを嫌な気持ちにさせた回数に見合うだけの謝罪など、絶対にしていないということに。
特に普段近くにいる方々に対しては、そういったことが必然的に多くなっているでしょう。もちろん、家族であれ職場の同僚であれ、何かしら目的を持ったときに意見が衝突することがあるのは、仕方ないことなのかもしれません。
当然、そういったやりとりの中で、何か悪意を持って接することなどはありません。しかし前述のように、意図しないところで、何かしらマイナスの感情を与えてしまっている可能性は否定できません。
そう考えていくと、誰しも存在するだけで、誰かに何かしらの影響を与えてしまっているならば、今この場にいられるということは、知らないうちに、実は誰かに許されているという証拠でしょう。
そうすると、自然と”ありがとう”という気持ちが沸き上がってくる、というものです。