喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

やっぱりジュースは缶が美味いんだよなぁ

すでにタイトルで言いたいことは言ってしまったので、もうこの記事を終了しても良いのですが、曲がりなりにも世界中に発信しているということで、なんとか頑張って話を続けたいと思います。

 

世はインターネット時代で、最近は小学生とかも普通にスマホでネット三昧でしょう。ゆえにブログという公共の場を使って、「缶ジュースが美味い」とだけ吐き捨てて立ち去る大人は、もはや簡単に見捨てられる。そんなことになると私も意外と傷つくわけです。

 

彼ら彼女らの言葉のナイフは、これからも、ややしばらく磨く必要もないくらいピカピカなわけで、そのくせ切れ味の悪さというものを体感したことがありませんから、さもそれが当たり前かのように無邪気に振り回してくるわけです。

 

傷つきたくないので、文章を続けます。

 

私はよく缶のコーラを飲みます。なぜ缶なのか、なぜペットボトルではないのか。正直、このへんを冷静に考えたことがなかった。もはや己に考える隙も与えない手付きで、レジに缶ジュースを運んでいました。そして、ふと気づくと自分の部屋のデスクでプシュッとプルタブを引き、グビグビやっている。

 

このときの何とも言えない感覚。まるで、最愛の人と抱き合ったような安心感。母が作ったナスの煮浸しのような帰ってきた感。からあげ弁当のようなコレで良いんだ感。

 

では、缶ジュースのどこにそれほどの魅力があるのでしょうか。ペットボトルと比較して見ていきたいと思います。

 

まず見た目。これは言うまでもないでしょう。缶のほうが圧倒的にスタイリッシュです。ペットボトルを想像してください。意味の分からない形をしています。

 

その形状である理由が、物理や化学に裏付けられたものであっても、とうてい理解できません。なぜそこがへこんでいるんだ、というわけです。

 

それに比べて缶は、いかなる飲み物でも同じ円柱型です。これは「完成されている」と言わざるを得ない。

 

次に温度です。これに関しては、ペットボトル信者の皆様も反論できないと踏んでいます。なにせ熱伝導率がケタ違いなわけです。キンキンに冷やせるわけです。

 

こう考えると、夏の部活終わり、ヘトヘトになって座っていた私のもとに女子マネージャーがやってきて、「おつかれ!」と言いながら私の顔に当ててきた飲み物がペットボトルだったとき、これは青春と呼んでいいのでしょうか。

 

というか、ペットボトルの微妙な温度のせいで私のリアクションも薄くなり、女子マネージャーを笑顔にしてあげられない可能性がある。

 

これがキンキンに冷えた缶ジュースであれば、私もギャーギャー言いながら地面をのたうち回ったり、四足歩行で逃げまどったりして、何らかの爪痕を残せることでしょう。ペットボトルよりもだいぶ青春を感じるのは私だけでしょうか。

 

 

最後に、もしかするとペットボトルはキャップがあるから、ゆっくり飲めて持ち運びも出来て便利。という意見があるかもしれません。

 

確かにその通りです。

 

 

ただそれだと、女子マネージャーとシェアする口実が作りにくいなぁと、私は思うわけです。

気付いたら、だいぶ休んでますね、コレ。

まず初めに、この度は大変申し訳ございませんでした。

 

もちろん私は気づいております。この手の謝罪の際は、誰に対して、そして、何についてお詫びしているのかを明確にしなければいけないことを。

 

さらに、このあたりを”あやふや”にしてしまうと、謝罪相手からは「そもそもお前は、お前自身の何が悪かったかを理解しているのか」と言われかねません。

 

確かに、真にそのあたりを理解できていない人間は、次に活かせる反省点を見出すことすらできない、と私自身も認識しております。

 

ではなぜ、このように謝罪しているのかを簡単にご説明したいと思います。

 

いきなり矛盾するようなことを言ってしまいますが、私は自分自身には、なんの落ち度も感じておりません。どんなに自分自身の言動を思い起こしても、この場で腰を据えて謝罪するようなことは見つかりません。

 

ですが思ったのです。私自身には悪気のない言動によって、誰かしらに何かしらの不快感や怒りを与えてしまっている可能性があるのではないかと。

 

しかしながら、自分では自分の何が他人にマイナスの影響を与えてしまっているのかが分からない実状があります。

 

そうすると当然ながら、誰に何を謝れば良いのかが分からないということになってしまいます。もっと言うと、それが謝るべきことであるかすら分かりません。

 

その中で、自分が逆の立場になったときを想像すると、確かに日常生活では、謝ってほしいとは思わないまでも、それなりに回復に時間を要する出来事が無いとは言えません。

 

これらを総合的にみて、いま自分ができる最善策は何かと考えたとき、誰に対してでもなく、そして、何についてでもなく、ひとまず謝罪の意をしたためるようと思ったしだいであります。

 

そして、改めて実感したのです。私は、自分が意図しないところで誰かを嫌な気持ちにさせた回数に見合うだけの謝罪など、絶対にしていないということに。

 

特に普段近くにいる方々に対しては、そういったことが必然的に多くなっているでしょう。もちろん、家族であれ職場の同僚であれ、何かしら目的を持ったときに意見が衝突することがあるのは、仕方ないことなのかもしれません。

 

当然、そういったやりとりの中で、何か悪意を持って接することなどはありません。しかし前述のように、意図しないところで、何かしらマイナスの感情を与えてしまっている可能性は否定できません。

 

そう考えていくと、誰しも存在するだけで、誰かに何かしらの影響を与えてしまっているならば、今この場にいられるということは、知らないうちに、実は誰かに許されているという証拠でしょう。

 

 

そうすると、自然と”ありがとう”という気持ちが沸き上がってくる、というものです。

「なんで勉強しなきゃいけないの?」とか聞いてくる子供いますよね

もし、よその子の親が「うちの子が、『なんで勉強しなきゃいけないの?』って聞いてくるのよ。どうしたら良いと思う?」と私にたずねてきた場合、私の回答は決まっている。

 

「子供の好きなようにさせてあげるのが一番ですよ。奥さん」だ。

 

子供の人権を尊重しつつも、奥さんに決して落ち度はないということを伝えたい。ありきたりな答えかもしれないが、とにかく、この奥さんの日々の頑張りを褒めたたえることに全力を注ぎたい。

 

確かに、子供が勉強するかどうかは育った環境が大きく影響しているだろう。そして、その影響の多くは家庭環境から受けていると考えるのは当然のことである。

 

ゆえにこの奥さんは、「自分の育て方が悪いから子供が勉強をしない」と思っていると推測できる。悩んだあげく、藁にもすがる思いで、私に相談してきているのだろう。

 

悩める女性をないがしろにすることは出来ない。ここはさらに踏み込んで、奥さんの精神衛生に貢献したいところだ。

 

しかし残念ながら、「子供の好きなようにさせるのが一番」という回答には、穴がある。それは「この奥さんは子供に勉強してほしい」可能性があるということだろう。

 

こうなると非常に難しい。立ち話で済むような次元は超えている。なぜなら、勉強するしないの前に、人間の価値について議論しなければいけないからだ。人間の価値といっても、どの観点で論じるかも明確にする必要があるだろう。社会的価値なのか、いわゆる人間性なのか。

 

つまり子供にどうなってほしいのか。その中で、勉強というのはどういった役割を担うのかを話す必要がある。

 

さらに加えて、悩める奥さんの気持ちを救いたいわけである。これは間違いなく、喫茶店に行くべきだろう。美味しいパンケーキを食べながら話しましょう、という感じである。

 

茶店に着く。平日の昼間なだけあり、人はまばらだ。

 

私と奥さんの議論が始まる。社会的価値を高めるため、あるいは、良い人間性を獲得するために勉強は必要かということである。私の意見としては、子供の好きなようにさせることに変わりはない。

 

奥さんは言うだろう。「勉強をすれば、今後の進学や就職での選択肢が増える。そうすれば、希望通りの進路に進める。私はなにも自分の子に成功者になってほしいわけではない。普通に幸せに暮らしてほしい。」

 

ここで言われている勉強は、「学力」というツールを意味しているだろう。確かに、学力があれば、入れる学校や会社の選択肢は広がる。

 

では、自分の希望通りに物事が進めば、そこには幸せがあるのだろうか。統計的な話を持ち出すと、学歴がある方が幸せになる可能性は高いのかもしれない。

 

だが、学歴社会や資本主義の中で、いかに幸福度を高めるかは、学力や経済力と別枠のように思う。学歴やお金があっても、もどかしさを感じている人は少なからずいるだろう。優越感と幸福感は区別しておかなければならないのだ。

 

こういった確率論の中では、どのような情報を集めてどう集計するかによって、判断が左右される。子供が勉強するかどうかと同じように、子供に勉強させたいと思うかどうかも、また環境に依存しているということ。

 

つまり、”そう思う”ということは、その環境にいるからという事が理由であり、その環境にいるから”そう思う”のは当然ということだろう。個人の価値観とはその程度のものだ。

 

つまり、奥さんは奥さんの思うようにしたら良いということで。私は奥さんの考えを受け入れたいと思う。

 

 

ところで奥さん。また今度、お茶しませんか。

 

予定は奥さんに合わせますよ。

「お茶飲もう」と思って、ペットボトルのキャップあけて口に運んだ瞬間に中身ないことに気付いても、そのまま飲むふりするよな。

ひさびさに喫茶店に来ている。最近このブログをまったく更新しなかったのも、喫茶店に行く機会がめっきり無くなっていたからと言っても過言ではない。私は喫茶店にいないとブログを書く気がおきない。

 

ともあれ裏を返せば、しっかり自粛生活を送っていたということで、むしろ更新が止まっていたことを褒めていただきたいところだ。もし今私が、ワイドショーの街頭インタビューを受けたら、コメンテーター達はこぞってこのプロ意識を称賛するに違いない。

 

そんな自称プロ中のプロブロガーである私が、わざわざ喫茶店に足を運び、これを読む方々と共有したかったことが、タイトルの内容である。

 

この「もう中身がないのに、飲もうとしてしまう」現象は、集中しているとき、特に仕事中に発生する傾向があるように思う。そして、職場では常に他人の目がある。

 

これら条件が重なり、恥ずかしさから、あたかもまだお茶が残っているように振舞ってしまう。

 

しかしここで、重大な問題が発生する。演技力である。恥ずかしさを回避するために、「飲む演技」をするのだ。もしここで、周囲から「あの人、飲む演技をしている」と思われると、恥ずかしさ倍増である。ゆえに、完璧な演技が求められるわけだ。

 

さらに、もうひとつ重大な問題がある。「飲む演技への切り替え」問題だ。

 

私の経験上、飲み切った状態と言えるペットボトルの中には、ほんの一滴ほどの液体しか残っていない。この状態での「飲む演技への切り替え」の難しさについて説明したい。

 

まずペットボトルを手に持ち、キャップを開ける。まだこの時点では、もう中身がないことに気付いていない。そして、ペットボトルを口に運ぶ。この時点でも気付けない。そして最後に、ペットボトルを斜め45度に傾ける。その時初めて、ペットボトルの内部が私の視界に入るのだ。視界に入ってから、ほんの一滴分の液体が、私の口に向かってゆっくり流れてくる。

 

このコンマ数秒の間に、「飲むふりをするぞ」と決意し、演技スイッチを即座に入れなければいけない。

 

私は、幼少期のころから演技力に難がある。小学校の学芸会では、「村人C」というほぼエキストラみたいな役どころにも関わらず、たった一言のセリフも上手に言えなかったため、先生と放課後にマンツーマンで居残り練習するという始末であった。

 

物語に何の影響もおよぼさない村人Cのセリフ練習に付き合わされた先生のことを考えると、頭が下がる思いだ。

 

そんな感じで、他人の時間をも奪いとる破滅的な演技力の私である。

 

これほどに演技力がないならば、もはや飲むふりなどしない方が良いのではないかと、そんな風に思わなくもない。だが、それはそれで、立ち振る舞いが難しい。

 

飲もうと思って中身がないことに気付き、素直に(あ、なかった…)と反応したとしよう。しかし残念ながら、「飲もうとしたら、中身がなかった」という出来事など、誰かに共有するほどのことでもない。

 

もし私が隣に座る人間に「今、お茶飲もうとしたら、もう無かったんだよね」と言われても反応に困る。それを言われた側の負担が大きすぎやしないだろうか。ここから話を膨らませられるなら、私はとっくにトップブロガーになっているはずだ。

 

そうなると、(あ、なかった…)と反応しつつも、誰にも言わずに自分のなかで消化しなくてはいけない。もちろん、飲む演技をしたとしても、それは同じである。

 

これらを総合的に考えると、やはり私は他人に影響を与えない立ち振る舞いをしたいと思う。「最後のひと口を飲み終えた人」として振舞うことが、とても日常になじんでいる感じがするため、そちらを選ぶというわけだ。

 

まぁしかし、こんなことを言ってますが、もし女の子が「あっ...」と言って、そのまま空のペットボトルを捨てに行くのもカワイイと思うし、「今、お茶飲もうとしたら、もう無かったんだよね」と私に言ってきたとしても、「ちょうど飲み物買いに行こうと思ってたけど、なんか飲む?」とか言って、そのチャンスに食らいつきますけどね。

 

 

でも、私はゴリゴリの中年男なので、そのチャンスをものにできないと思いますが。

もうコロナ関係なしにマスクを外すのが怖い。

今となっては、すっかりマスクも顔の一部である。お互いマスク姿で初めましての自己紹介をし、その方々の口元はいまだに知らない。Zoomで初対面し、ついには直接会うことなく、そのまま異動したあの方は、今どうしているだろう。

 

コロナ禍の生活に慣れてきたとはいえ、こう考えるとやはりどこか寂しいものがある。はやく普通の生活に戻りたい、そんな風に思っていた。

 

しかし、その気持ちに反して少し気になることがあった。私の「ほうれい線」が、この1年で深くなったような気がするのだ。あくまで気がするだけであるが、マスク生活だったこの1年。人生でもトップレベルに顔の筋肉を使っていないような、気がする。

 

「気がするだけだろ」と思った方もいるかもしれない。しかし、この「気がする」というのが厄介。言ってしまえば、実際にほうれい線が深くなってしまった場合よりも厄介である。言い換えると、ほうれい線が深くなったとしても、そんな気がしていなければ、まったく問題ない。

 

つまり、今ほうれい線が深くなった気がしている私は、実際にほうれい線が深い人よりも、ほうれい線への執着心が強いわけである。マスクを外すと、このほうれい線を見た人が「はっ、え?、あっ…」となるような気がしてならない。

 

思えば、似たような経験は毎年のようにしていた。春から夏にかけて、徐々に気温が上がってくる。そうすると、どこかのタイミングでTシャツを着て外出することになる。この、Tシャツを着るか否かで迷う時期に、勇気をもって自分の意思を貫きTシャツで外出すること、これが「マスクを外す」に近しい。

 

その年最初のTシャツでの外出は、なぜか無防備感がすごい。パンツ一丁ぐらいの感覚だ。なので私くらいの小心者になると、安心するために道中でTシャツの人数をカウントしてしまう。もちろんTシャツの人数が多ければ多いほうが良い。だが、「質」も重要だ。

 

私はガリガリ体型である。そんな私がTシャツを着るのと、ゴリマッチョがTシャツを着るのではわけが違う。ゴリマッチョはノーカウントだ。印象が違いすぎる。というか、マイナスポイントになる可能性すらある。

 

真夏日であれば、ゴリマッチョはもちろんのこと、私がTシャツを着ても違和感はないだろう。問題はきわどい天候のとき。「なかなか暑い、でも曇り空で少し風がある」、これくらいの天候はゴリマッチョとの相性が悪い。ゴリマッチョと並ぶと「あのガリガリ寒そう」となりかねない。

 

もちろん実際には「寒くないですか?」などと言われたことはない。むしろ、逆にそんなことを聞かれたときは、逆ナンの類いと認識させていただきたい。そのまま喫茶店でお茶したい。

 

とにかく、このTシャツにしても、ほうれい線にしても気になりだすと、歯止めがきかない。マスクを外して生活できるときが、いつ来るのかは分からない。この期間が長引けば長引くほど、マスクを外すときに勇気が必要になってくる。この期間が長引けば長引くほど、ほうれい線がより気になってくる。長引けば長引くほど、ほうれい線がホントに深くなっていく。

 

いざみんながマスクを手放したとき、あなたの身近にも「この人こんなにほうれい線に深みありましたっけ」という方がいるかもしれない。でも、絶対に口元を凝視してはいけない。口元に関する話題を持ち出してもいけない。

 

どうかその時は、この記事を思い出してほしい。私のように怯える人間がいることを思い出してほしい。

 

もしかすると、「そんなこと気にするのは、お前だけだ」という意見があるかもしれない。

 

それは、すいませんでした。幸せです。

さすがに、ちょっとは運動しないといけないわけで。

まぁ、他人の日頃の運動量など、どうでも良いでしょうが。私は日々、運動不足を極め倒しているわけです。

 

一応、私も社会人の端くれですから。しばしばビジネス書なり、意識高い系ユーチューブなりを拝見して、勉学に励みます。その中でも、やはり「習慣」というのは絶大な威力を発揮するようです。

 

そして、この「習慣」の力が、私の運動不足を確固たるものにしています。

 

本来、「習慣」というものは、「努力」の先にあるものらしく、確かにこの論説は、私も納得できます。毎日努力し続けることで、いつしかそれをやらないと違和感が生じるようになる。こうなると、習慣化成功ということでしょう。

 

しかし、この理屈だと、習慣化される前に「努力」のフェーズがある。しょうがないとはいえ、これはしんどい。さらに、習慣が変わるということもあるのではないでしょうか。

 

特に後者。

 

学生のころ、あんなに好きでたまらなかったゲームを、社会人になった途端にやらなくなってしまう。休みの日をゲームで終わらせるなんてもったいない。そんなことはないでしょうか。これは、習慣が変わったと言って良いでしょう。

 

前の職場にいた時は、休みのたびに勉強していた内容を、転職してからは一切やっていない。これも、習慣が変わっているでしょう。

 

これらのように習慣が変わってしまう原因、それはとても単純だと思います。重要度が変わったからです。もっと直接的に言うならば、その習慣の産物が役に立たなくなったから、と言えるでしょう。

 

たとえ同じ職場にいても、環境は目まぐるしく変わるわけです。そうなると、時々に必要な能力や知識というのも移り変わっていくでしょう。そうなると、先ほどの「努力のフェーズ」を乗り越える回数が増える。つまり、何度も努力しなければいけないわけです。

 

私は、そんな人生は嫌なのです。なんとか楽して生活できないものか。しかし、楽なだけでもいけないわけです。社会的にもある程度は上手くやりたい。

 

そんな私が、発明したのが「とりあえず褒められろ理論」です。この理論で、努力のフェーズを最速で終了させることが出来ると考えています。本理論を用いた流れは以下です。

 

①ターゲット選定(誰に褒められるかを決める)

②身につけたい物事の中で、ターゲットが褒めそうな知識・能力を選ぶ

③学習する

④会話の中などで、学習した内容をターゲットに披露する

⑤ターゲットに褒められる

⑥ちょっとうれしい

⑦もっと褒められたい。③へ戻る

 

上記を大まかに分類すると、①~④は努力のフェーズです。そして、⑤~⑦は無双モード。さらに、もし⑤で褒められなかった場合、②に戻り、PDCAを回すことができます。

 

⑤で褒められた途端、自然とやる気が沸き上がってくることでしょう。

 

ここで、最初の話しに戻ります。私の運動不足が常態化しているということです。これは良くない。しかしながら、この悪習慣の裏で、私は「とにかく褒められろ理論」を実行しているわけです。

 

これに気づいたとき、「とにかく褒められろ理論」の最大の弱点が浮かび上がりました。それは、この理論があくまでも他人に依存しているということです。そうなると、褒められも怒られもしない事象に関しては、無関心になってしまう。「そんなことを頑張るくらいなら、褒められることに労力を」という循環がうまれてしまうのです。

 

もちろん、人間は不完全です。これで良いのかもしれません。しかし、自身の生活を振り返ると「さすがに、動かなすぎでは」と思ってしまう。老後が不安なわけです。60歳くらいになったとき、腰が直角に曲がっていたらどうしよう、と不安なわけです。現時点で、私はひどい猫背です。ここから腰が直角に曲がると、老後は自分の股間を凝視したまま生活するのかと考えると、むなしくなります。まぁ老化にともない、私の股間も頭を垂れてくるとは思うので、接触事故は避けられると踏んでいますが、凝視も避けたいです。

 

他にも、体力が落ち切って、数段の階段をのぼった程度でゼーハー言うようになったらどうしよう、と思うわけです。これでは、まともに女の子とデートもできやしない。お持ち帰りしたってベッドで爆睡です。まぁ状況によっては、「すぐに手を出さない誠実な男性なのね」という具合で、評価がうなぎ登りになるかもしれません。しかし、いずれ本番を迎えるわけです。

 

この体力のまま本番を迎えると、あの時の「誠実」が、単なる「衰弱」であったことがバレる。そうすると、その女性が見据えていた将来は音を立てて崩れるでしょう。

 

 

書いていたら、なんだか運動したくなってきました。

 

まずは散歩でも始めてみようと思います。ありがとうございました。

「卵かけご飯」にハマっています。

最近、卵かけご飯にハマっていまして。どういう風に作っているのか、ちょっとは気になる方もいるんじゃないかなぁと思ったので、筆をとった次第です。

 

私は、何事も簡潔に説明したい性格なので、ひとまずその流れを箇条書きで記載させていただきます。

 

こちらです。

①ご飯を炊く

②スーパーに卵を買いに行く

③卵をとく

④ご飯と混ぜる

⑤食べる

 

もちろん私も気づいています。ある意味予想通りであり、ある意味、予想を裏切ってしまっているということを。

 

ただ、思うのです。極上の卵かけご飯を作る職人がいたとして、その方も、おおよそこのような工程を経ているのではないかと。つまりは、一見ありきたりな、この5つの工程の中に「職人の技」がある。そう踏んでおります。

 

なので、この工程に潜むであろう職人の技を探りつつも、私の卵かけご飯の作り方や食べ方をお伝えできればと思います。

 

まずは、①ご飯を炊く。ここでのポイントは、「どのように炊くか」ではなく、「いつ炊くか」です。私は、これからスーパーに卵を買いに行くわけです。となると、買い物中に、炊飯が進捗している状態がベスト。

 

これは、職人以前に、社会人として必要なことでしょう。社会人の上位互換。それが職人なわけです。職人になるべく、まずは真っ当な社会人にならなければいけません。「どのように炊くか」は二の次です。とっとと炊飯ボタンを押して、スーパーに向かいます。

 

次は、②スーパーに買い物に行く、です。「今現在、まさに米が炊かれているんだ」という気持ちで、胸を張ってスーパーに向かいます。いつもよりゆっくり目に横断歩道を渡っても良いかもしれません。職人には余裕が必要です。

 

スーパーに着いたら卵売り場に行きます。ここで職人ポイント。ご存じの通り、卵かけご飯は卵の鮮度が重要です。消費期限をしっかり確認しましょう。できるだけ、期限が先のものを選ぶ。この意識は主婦の共感を呼びます。そして、共感した主婦は、こちらが店をオープンしたときに応援してくれるでしょう。主婦にはできるだけ迎合します。これも職人への道です。

 

会計を済ませ、家にもどります。「米が炊きあがる」ことを想像しながら、誇らしげに歩いて帰りましょう。気づいた時には、炊飯終了の合図である”あのメロディー”を口ずさんでいるはずです。口ずさんだまま家の鍵を開けます。

 

ここからが本番。③卵をとく、です。てきとうに殻を割って、お椀に卵を入れます。しかし、ここで反対派がいるかもしれません。「お椀にご飯をもって、そこに卵を割り入れるのが、正解ではないか」という派閥です。

 

確かに、彼ら「ご飯先盛り派」は、私とは違います。しかしながら、目的は同じ。極上の卵かけご飯を作ることです。いわば、笑点に「林家」と「三遊亭」が一緒に出ていることと同じなわけです。同じ目的ですからね。それぞれの道を追求することが、平和でしょう。

 

それにしても、山田君の座布団運びは、なんだか分からないけど良いですよね。確かに、次の司会が誰になるかとかも気にはなります。ただ、あのポジションを次やるとしたら誰かというのが、まったく予想がつかないというか。私は笑点マニアというわけではないので、その筋では、噂が出回っていたりするのでしょうか。粛々とあのポジションを狙っている方がいらっしゃるのでしょうか。「次は俺だ」という方は、コメントいただければと思います。

 

では、さっさと卵に醤油を入れて混ぜます。もう、だいぶお腹が減ってきました。細かいことは言いません。食欲に任せて醤油をかけたあと、憑りつかれたようにかき混ぜましょう。

 

そして、④ご飯と混ぜる、です。すでに空腹が限界の方もいらっしゃるでしょう。そんな方は食べながら徐々に混ぜていく、というスタイルをとっても差し支えありません。ただし、いったん職人うんぬんという話は忘れましょう。飯をむさぼる姿が職人のそれとは言い難い。でも、私はそんな日があっても良いと思います。

 

次は⑤食べる、です。先ほどの工程を経て、すべての米粒に卵が絡んだことでしょう。ここまでたどり着いた皆様、大変お疲れさまでした。「職人の技を探り、極上の卵かけご飯を作りたい」。今回は、あまりに目標設定が高かったためか、少々長くなってしまいました。

 

今、私と皆様の目の前では、黄金のベールに包まれた米粒たちが、こちらに向かって敬礼しているかと思います。あとは、彼らの命をありがたく頂くのみ。

 

ここで最後のポイントです。先ほどのスーパーで買っておいた「韓国海苔」で、ご飯を巻いて食べます。ごま油の香り。これが卵かけご飯のまろやかさをギュッとしめ、次へ、また次へと我われの食欲を後押しします。さらに、韓国海苔のあの儚い食感。手の平に落ちた雪の結晶のごとく、ご飯になじんでいく海苔。そして、まだご飯に触れていない部分が、蒸気で犯される前に口に運ぶ。噛む前から、口に入れた瞬間から、やさしくパリパリと音を立てて崩れ、噛むと薄くはられた韓国海苔の層がやぶれて、ご飯にたどり着く。

 

 

これで完璧。韓国海苔、最高。