喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

「お茶飲もう」と思って、ペットボトルのキャップあけて口に運んだ瞬間に中身ないことに気付いても、そのまま飲むふりするよな。

ひさびさに喫茶店に来ている。最近このブログをまったく更新しなかったのも、喫茶店に行く機会がめっきり無くなっていたからと言っても過言ではない。私は喫茶店にいないとブログを書く気がおきない。

 

ともあれ裏を返せば、しっかり自粛生活を送っていたということで、むしろ更新が止まっていたことを褒めていただきたいところだ。もし今私が、ワイドショーの街頭インタビューを受けたら、コメンテーター達はこぞってこのプロ意識を称賛するに違いない。

 

そんな自称プロ中のプロブロガーである私が、わざわざ喫茶店に足を運び、これを読む方々と共有したかったことが、タイトルの内容である。

 

この「もう中身がないのに、飲もうとしてしまう」現象は、集中しているとき、特に仕事中に発生する傾向があるように思う。そして、職場では常に他人の目がある。

 

これら条件が重なり、恥ずかしさから、あたかもまだお茶が残っているように振舞ってしまう。

 

しかしここで、重大な問題が発生する。演技力である。恥ずかしさを回避するために、「飲む演技」をするのだ。もしここで、周囲から「あの人、飲む演技をしている」と思われると、恥ずかしさ倍増である。ゆえに、完璧な演技が求められるわけだ。

 

さらに、もうひとつ重大な問題がある。「飲む演技への切り替え」問題だ。

 

私の経験上、飲み切った状態と言えるペットボトルの中には、ほんの一滴ほどの液体しか残っていない。この状態での「飲む演技への切り替え」の難しさについて説明したい。

 

まずペットボトルを手に持ち、キャップを開ける。まだこの時点では、もう中身がないことに気付いていない。そして、ペットボトルを口に運ぶ。この時点でも気付けない。そして最後に、ペットボトルを斜め45度に傾ける。その時初めて、ペットボトルの内部が私の視界に入るのだ。視界に入ってから、ほんの一滴分の液体が、私の口に向かってゆっくり流れてくる。

 

このコンマ数秒の間に、「飲むふりをするぞ」と決意し、演技スイッチを即座に入れなければいけない。

 

私は、幼少期のころから演技力に難がある。小学校の学芸会では、「村人C」というほぼエキストラみたいな役どころにも関わらず、たった一言のセリフも上手に言えなかったため、先生と放課後にマンツーマンで居残り練習するという始末であった。

 

物語に何の影響もおよぼさない村人Cのセリフ練習に付き合わされた先生のことを考えると、頭が下がる思いだ。

 

そんな感じで、他人の時間をも奪いとる破滅的な演技力の私である。

 

これほどに演技力がないならば、もはや飲むふりなどしない方が良いのではないかと、そんな風に思わなくもない。だが、それはそれで、立ち振る舞いが難しい。

 

飲もうと思って中身がないことに気付き、素直に(あ、なかった…)と反応したとしよう。しかし残念ながら、「飲もうとしたら、中身がなかった」という出来事など、誰かに共有するほどのことでもない。

 

もし私が隣に座る人間に「今、お茶飲もうとしたら、もう無かったんだよね」と言われても反応に困る。それを言われた側の負担が大きすぎやしないだろうか。ここから話を膨らませられるなら、私はとっくにトップブロガーになっているはずだ。

 

そうなると、(あ、なかった…)と反応しつつも、誰にも言わずに自分のなかで消化しなくてはいけない。もちろん、飲む演技をしたとしても、それは同じである。

 

これらを総合的に考えると、やはり私は他人に影響を与えない立ち振る舞いをしたいと思う。「最後のひと口を飲み終えた人」として振舞うことが、とても日常になじんでいる感じがするため、そちらを選ぶというわけだ。

 

まぁしかし、こんなことを言ってますが、もし女の子が「あっ...」と言って、そのまま空のペットボトルを捨てに行くのもカワイイと思うし、「今、お茶飲もうとしたら、もう無かったんだよね」と私に言ってきたとしても、「ちょうど飲み物買いに行こうと思ってたけど、なんか飲む?」とか言って、そのチャンスに食らいつきますけどね。

 

 

でも、私はゴリゴリの中年男なので、そのチャンスをものにできないと思いますが。