喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

もうコロナ関係なしにマスクを外すのが怖い。

今となっては、すっかりマスクも顔の一部である。お互いマスク姿で初めましての自己紹介をし、その方々の口元はいまだに知らない。Zoomで初対面し、ついには直接会うことなく、そのまま異動したあの方は、今どうしているだろう。

 

コロナ禍の生活に慣れてきたとはいえ、こう考えるとやはりどこか寂しいものがある。はやく普通の生活に戻りたい、そんな風に思っていた。

 

しかし、その気持ちに反して少し気になることがあった。私の「ほうれい線」が、この1年で深くなったような気がするのだ。あくまで気がするだけであるが、マスク生活だったこの1年。人生でもトップレベルに顔の筋肉を使っていないような、気がする。

 

「気がするだけだろ」と思った方もいるかもしれない。しかし、この「気がする」というのが厄介。言ってしまえば、実際にほうれい線が深くなってしまった場合よりも厄介である。言い換えると、ほうれい線が深くなったとしても、そんな気がしていなければ、まったく問題ない。

 

つまり、今ほうれい線が深くなった気がしている私は、実際にほうれい線が深い人よりも、ほうれい線への執着心が強いわけである。マスクを外すと、このほうれい線を見た人が「はっ、え?、あっ…」となるような気がしてならない。

 

思えば、似たような経験は毎年のようにしていた。春から夏にかけて、徐々に気温が上がってくる。そうすると、どこかのタイミングでTシャツを着て外出することになる。この、Tシャツを着るか否かで迷う時期に、勇気をもって自分の意思を貫きTシャツで外出すること、これが「マスクを外す」に近しい。

 

その年最初のTシャツでの外出は、なぜか無防備感がすごい。パンツ一丁ぐらいの感覚だ。なので私くらいの小心者になると、安心するために道中でTシャツの人数をカウントしてしまう。もちろんTシャツの人数が多ければ多いほうが良い。だが、「質」も重要だ。

 

私はガリガリ体型である。そんな私がTシャツを着るのと、ゴリマッチョがTシャツを着るのではわけが違う。ゴリマッチョはノーカウントだ。印象が違いすぎる。というか、マイナスポイントになる可能性すらある。

 

真夏日であれば、ゴリマッチョはもちろんのこと、私がTシャツを着ても違和感はないだろう。問題はきわどい天候のとき。「なかなか暑い、でも曇り空で少し風がある」、これくらいの天候はゴリマッチョとの相性が悪い。ゴリマッチョと並ぶと「あのガリガリ寒そう」となりかねない。

 

もちろん実際には「寒くないですか?」などと言われたことはない。むしろ、逆にそんなことを聞かれたときは、逆ナンの類いと認識させていただきたい。そのまま喫茶店でお茶したい。

 

とにかく、このTシャツにしても、ほうれい線にしても気になりだすと、歯止めがきかない。マスクを外して生活できるときが、いつ来るのかは分からない。この期間が長引けば長引くほど、マスクを外すときに勇気が必要になってくる。この期間が長引けば長引くほど、ほうれい線がより気になってくる。長引けば長引くほど、ほうれい線がホントに深くなっていく。

 

いざみんながマスクを手放したとき、あなたの身近にも「この人こんなにほうれい線に深みありましたっけ」という方がいるかもしれない。でも、絶対に口元を凝視してはいけない。口元に関する話題を持ち出してもいけない。

 

どうかその時は、この記事を思い出してほしい。私のように怯える人間がいることを思い出してほしい。

 

もしかすると、「そんなこと気にするのは、お前だけだ」という意見があるかもしれない。

 

それは、すいませんでした。幸せです。