喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

とあるコンビニ店員の声量が気になる

私は昔から声が小さいでおなじみだ。幼稚園児のころから「声が小さい」と注意され、小学生の学芸会では、その声の小ささから、たった一行のセリフしか与えられていない脇役にも関わらず、居残り練習をさせられていた。夕暮れ、たった一人の小学生がステージに立ち、たった一人の先生に向かって、同じセリフを繰り返す。シュールリアリズムという言葉を知ったとき、最初に浮かんだ光景がこれだった。青春の1ページに刻むには少々滑稽だった。

 

そして、昨今コロナウイルスの影響で、基本的に外出時はマスクをつけている。このマスクという代物は、外部からのウイルスを遮断するのに効果があるらしい。しかし、残念ながら私の発声も見事に遮断してくれる。音は空気の振動と聞いたことがある。悲しいことに私の声帯が放つ振動は、マスク一枚にしっかりと吸収されてしまう。

 

そんな、声量には全く自信がない私だが、毎朝行くコンビニの店員が気になっている。その方は推定60歳の男性、足腰はしっかりとしておりハキハキとしゃべる。そして何より、声がでかい。寝起きの頭に響くような大きな声。接客態度は素晴らしいが、私としては、毎日なぜそんなに声がでかいのか。不思議でならない。

 

お世辞にも若いとは言えない年齢。にもかかわらず、毎日の全力フルスイングな「いらっしゃいませ」。素晴らしいが、心配になってくる。私の性格上、「ずっと全力だと、いざ手を抜いたとき目立つではないか」という、ズルい思考が押し寄せてくる。つまり日常における選択肢がなくなるのだ。

 

常にちょうど聞こえるくらいの声量で接客をしていれば、声に強弱をつけることが出来る。しかしあの方は、もはやにしか出来ない。「調整=弱」の状態、つまりどう調整しても「元気がないのではないか」と思わせてしまう。60歳、心配になってくる。来たるラストいらっしゃいませまで、体力が持つのだろうか。さすがに最後「いらっしゃいませ」で絶命するのは本望じゃないだろう。というか、「いらっしゃませ」とは不謹慎。こちとらまだ逝ってたまるものか。

 

しかしながら、このような猪突猛進型の人間は、少なからず存在するように思われる。もはや最近は聞かなくなったが、すぐに「やる気がないなら帰れ!」という上司。本当に帰ってほしいときは、どのような顔で伝えるのか。なかなか繊細な技術が必要そうだ。

 

「ぜったいに損はさせません!」というセールスマン。数多あるニーズに対して、「損をさせたくない」という理念を打ち出すのであれば、なぜに企業勤めか。

 

「普通どこの家庭も1台はテレビを持っている」と料金徴収を促す、某テレビ局。まず「普通」の定義から話し合おうではないか。

 

自分自身も注意しなければならないと、そう思うばかりだ。極端な言葉は身を滅ぼすように思える。何より、本来完璧であるはずがない人間の性質に反している。それでも、信頼を得たいという欲から、私たちはつい「できます」と言ってしまう。だが私は、個人的には信頼を得る為に、出来るだけ「できます」と声高に言っていきたい。

 

 

そのせいか、学芸会の本番、練習の成果は出なかった。