喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

注文したいので、どうか気づいてほしい。

コミュニケーション能力の欠落が否めない人生である。もちろん私だけでなく、コミュニケーションが苦手という方は少なからずいるだろう。だがそんな中で、「私はコミュニケーションが苦手だ」と表明する方がいる。そして、往々にしてそれを聞いた周りの人間は「そうは見えない」などと言ったりするのである。

 

私から言わせると、そうは見えなくて当然である。なぜなら彼ら彼女らは、真にコミュニケーションが苦手なわけではない。苦手意識がある中でも、コミュニケーションを円滑に実行できている。ゆえに、そうは見えないという結論に至るのである。

 

「苦手だけど、出来てしまう」。このような人間こそコミュニケーションというものを軽んじる素質を備えているように私は思う。

 

今回は、これら真にコミュニケーションが苦手ではない方々と比べ、私がいかにコミュニケーションの呪縛にとらわれているかお伝えしたい。

 

先日、カレーを食べたいと思い立ち、カレーショップ「ココイチ」に訪問した。ご時世もあり、先客はカウンターの端のほうの席に座る女性のみ。私もその女性から6~7席ほど離れたカウンター席に座った。

 

メニューを眺めている時、客は私と女性しかいないにも関わらず店員さんがどこかせわしないことに気づく。想像するに、おそらく宅配の注文が多いのだろう。この時点で、コミュニケーションに難がある私は嫌な予感がしていた。

 

食べたいものも決まり、注文しようと店員さんを呼ぶ、「すいません」。

 

厨房を回す3人の女性店員。彼女らは、プロフェッショナルそのものと言える手際でカレーを作る。そして、次に作るべきカレーの段取りを最小限の会話で済ませ、各自のやるべき仕事に邁進する。ひとりは、豚カツを揚げるのと同時に白米の計量作業をこなし、もうひとりはカレールーの仕込みと出来上がった揚げ物を包丁でカットしていく。残りのひとりは、出来上がった具材、カレールーをキレイに盛り付ける。

 

実に美しく、効率的な連携である。

 

しかし、私は「見とれている場合ではない」と思い立ち、再び店員さんを呼ぶ、「すいません」。

 

思えば、カレーショップ「ココイチ」に来店するのはいつぶりだろうか。昔は頻繁に来ていた。あの当時は、目線を店員さんに送り、軽い会釈とともに片手をひょいと上げると注文を取りに来てくれた。あれは自分の甘えだったのだろうか。

 

ここから3回目の「すいません」を言う勇気が出ない。店員さんに気づかれないことも恥ずかしいが、何より、同じカウンター席でカレーの到着を待つ女性に、「2回店員を呼んでいるのに気づいてもらえない」という事に、気づかれている可能性があることが恐ろしい。

 

私と店員さんの距離、そして私とカウンター席の女性の距離はほぼ同じである。単純に私の声量不足で店員さんに声が届いていないのであれば、カウンター女性にも届いていないだろう。

 

しかしながら、先ほど言ったように、店員さんは鬼のような集中力で流麗な作業をこなしている。一方、カウンターの女性はスマホを触っているだけだ。スマホを操作する指の動きを見るにツイッターやインスタ、フェイスブックのようなSNSの類いであろう。SNSというのは、流し読みできるで有名だ。流し読みの合間に、私の「すいません」が耳に入っている可能性は十分にある。

 

さらに心配なのは、店員さんにも「この客はいつになったら注文するんだ」と思われているかもしれない、ということだ。私にも言わせてほしい、「注文したいから気づいてください」。

 

「次の失敗は許されない、どうするか」と考えていると、こんなことを思い出した。音楽をCDで聴くとベースの音が全く聞こえない。だがライブとなると、ギターよりもベースのほうが、音が響いて目立つ、という話。

 

「他人は皆先生」を合言葉に、素直に人の意見に耳を傾けるよう努力してきた私である。つまりは、ありったけの重低音で「ぅすいません」と放った。

 

そのおかげか、声は店員さんに届き、はじけるような笑顔と元気な声で「お伺いいたします」と、応答してもらうことに見事成功した。

 

真にコミュニケーションが苦手な人間とは、こうである。「会話は普通にできるけど、苦手意識がある」という程度の理由では、コミュニケーションを苦手とは言えない。しっかりと会話にも難がないと自称するに値しないと言いたい。

 

ちなみにココイチは宅配サービスも充実しているので、ぜひともお近くの店舗でご利用ください。

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