喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

平日20時。あのコンビニでレジを担当するあの2人。たぶんあれは、付き合ってる。

「青春」の2文字を広辞苑で調べたとき、そのとき初めて自分が一般的な「青春」を謳歌できていなかったことに気づかされたものだ。

 

夢や希望にあふれた活力みなぎる時期が、これまでの人生に存在していたか、自信がない。

 

一般的に「青春時代」と言われる学生時代、自分としてはそれなりに青春を謳歌しているような気がしていた。確かに日本社会が求める学生への要求事項を満たしていたとは思う。しかしながら、いざ社会人となり冷静に振り返ってみると、圧倒的にそれ以外が欠落していた。

 

「青春」が欠落していたのだ。

 

「青春」というのは実態がない。具体性がない。つまり、青春というものは個人の価値観による。学生時代の私は、「これこそ青春」と自分に言い聞かせ、「青春」の具体性の無さを都合よく利用し、自分の中にある壁を超える努力を怠っていたように思う。

 

改めて「青春」の2文字を広辞苑で調べたとき、そう思った。そして、私が全くモテなかった理由もこれだったのではと、そう思った。

 

ということもあり、客観的に見ても「これぞ青春」という事柄を実行できている人間を見ると、単にリア充という言葉では括れないほど、偉大な人物に見えてしまう。

 

これが学生時代の私であれば、リア充という言葉に付け加えるように、「性欲がスゴイんだろうな」という、非常に短絡的な結論を出していた。私はなんと最低な人間なのだろうか。性欲がスゴイのは私も同じである。

 

仕事帰り、いつも立ち寄るコンビニがある。そのコンビニに行くと、いつも仲睦まじく、レジを担当している2人の男女がいる。ともに20歳くらいだろうか。私が学生時代に経験できなかった「青春」を謳歌している2人である。

 

とても楽しげに会話をしている。冗談を言い合い、ときに互いのダメな部分を指摘する形式でのじゃれ合いを見せる。一方が笑えば、それにつられるようにもう一方も笑う。仕事場では、関係性を露骨に出すわけにはいかないことは知っている。でも今この場にいるのは私たち2人だけ、俺たち2人だけだ。何を話しても楽しい。次の話題を考える必要なんてない。このままで良い、思ったまま、考えたままを表現しても受け入れてくれる。こんなに心地よい時間がずっと続けば良いのに、お互いがそう思っている。

 

そんな最中、私はレジに向かうのである。2人の夢のような時間を切り裂く。会話は中断され、手際よく作業を行う男性店員。機械的に作業を進めている中にも、会話の余韻が残っているのが分かる。男性店員の斜め後ろにたたずむ女性店員。

 

お金を払い、お釣りが渡される。昨今のコロナウイルスの影響で、お釣りはトレーに入れて渡される。トレーの中で四方八方に散らばる小銭。お釣りをトレーに入れた瞬間に男性店員の仕事は終わり、斜め後ろの女性店員との会話が再開される。

 

楽しげに会話をしている。その中で、私はお釣りを一枚一枚財布にしまう。冗談を言い合い、笑い合っている。お互いのダメな部分を笑いながら指摘し合う。私は小銭を財布にしまう。2人だけの世界は誰にも邪魔できない。この心地よい時間が終わらないように、途切れなく話し笑い合う。私は心なしかいつもよりも、こうべを垂れる形で小銭をしまう。

 

私は、2人の接客態度に対しては何とも思っていない。むしろ、もっと楽しめというスタンスである。自分が経験できなかった「青春」を体現している若者が目の前にいる。彼ら彼女らは、私が学生時代に超えられなかった壁を、すでに超えているのだ。むしろ尊敬に値する。

 

2人には、ぜひとも引き続き青春を謳歌していただきたい。それでこそ学生である。学生で学ぶべきことの本質はそこにある。

 

 

そしてたぶん、性欲もスゴイだろう。