喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

ファッションセンスがない、いや、向上心。違う、どうにも自分にピントが合わない。

服への興味がない、それに準じてセンスも皆無だ。もちろんインターネット時代である、ひとたび検索すれば、世のオシャレ紳士たちが、我こそはと己のセンスを披露している。しかし、たいていの場合思ってしまう。「そういうことではない」と。

 

ほぼ無限ともいえるキャパシティを持つインターネット。その中に無数に散らばるファッションセンスは、なぜにこうも斜め上をいくものばかりなのか。もう少し一般的な、出来るだけ目立たないが、ダサくもないファッションはないものか。私のようなファッションに造詣が深くない人間にとっては、流行っている=オシャレであって、奇抜なものは全てアートである。もちろん、自己表現の一種としてファッションがあることも理解している。しかし、私には、そのファッションが「自己表現」なのか「日常生活」なのかが判断できない。

 

しかし冷静に考えれば、ネットに自分のファッションを投稿している時点で、そいつは目立ちたがり屋だ。このファッションはイケてると自負しているからこそ、世の中に発信出来るのである。つまり、出来るだけ目立ちたくないと考える私のような人間が、ネットに自らを投稿する目立ちたがりの権化のような彼らに、シンパシーを感じる余地などあるはずがない。最初からリサーチを間違えていた。

 

別にオシャレになりたいわけではない。ただ、あまりに代わり映えしないのだ。私は、基本的には季節ごとに着る服が決まっており、その季節は同じような服ばかり着ている。トレーナーを着始めたら、その季節はトレーナーばかり着るような感じ。同じようなトレーナーをいつも着ていると、安心感がすごい。いつもの自分でいられる感じがする。

 

ただ問題が季節の変わり目。特に春から夏にかけてだ。基本的にあたたかい季節に向かうにつれて、装備が軽くなっていくが、その不安と言ったらない。夏になり、Tシャツ1枚を着た己の無力感たるや。誰も守れないような貧弱なシルエットだ。もはや影だけで、「コイツには勝てる」と思われてしまうだろう。心外だが事実なのもくやしい。

 

しかしながら、Tシャツも慣れてしまえば、いつもの平和な日々が取り戻される。

 

こう考えていくと、私は安心感を求めるあまり、ほかのファッションに挑戦出来なくなっているように思われる。その結果、代わり映えしない服装となり、センスがないように感じるのだろう。

 

大人になってくると、自分を変えることが難しくなる。例えば髪型、「自分は今までこれでやってきた。やってこれた」という、根拠のない理屈で変化を拒む。職場でも同じく、さらなるステップアップのために、今の境遇を捨てられる人がどれだけいるだろうか。

 

目指すものがあって、そこに挑戦したいならば、ある種盲目的に突き進まなければならないだろう。それくらい周りには同じ気持ちになっていても、腹をくくれない人が多い。挑戦者が苦しむ時、それは周りに意識が向いている時だ。なんとか頑張っていきたいものだ。

 

 

といっても、まず私は目指したいファッションが見つからないのだが。