喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

酔っぱらうと、みんなに感謝してしまう

なぜだか、酔っぱらうと身近にいる人に感謝の念が湧き出てくる。不思議と「あの嫌な奴がいてくれたおかげで、今の自分がある」とすら思えてくる。

この時の酔い具合は、ほど良いものでなくてはならない。酔いが浅いのはもってのほかだが、ベロベロでもいけない。頭は回るがリラックスしている状態。ちょうど塩分濃度の高い死海に、顔の表面だけを出してプカプカ浮いている具合がちょうど良い。感謝に拍車がかかる。

 

この酔いの境地に達した勢いで、ブーストされた感謝を次々と周りの人に伝えたくなる。一見義理堅く、良いやつに見える。しかしながら、ブーストしている。ブーストしてしまっている。しだいに周りの人間も、この迷惑行為に気づき始める。当然だ、どれだけ感謝しても自分本位の感謝なのである。

 

感謝されることは、基本的にうれしいことだ。自分が何かその人の役に立っていたのだと、実感できる瞬間だろう。

 

しかし、私が酔っぱらった末に発動する、この感謝の舞はいかがだろうか。

 

そう、私が踊りたいだけなのである。

 

私が感謝を伝えようと舞い踊っても、近隣住民には”生活音がうるさいやつ”と思われてしまう。マンションの管理会社にクレームがいく。普通に怒られる。

 

よく喫茶店でお茶をする年配のグループを見かける。この手の年齢層では、いざお会計となると、「私が払う合戦」が始まる。おそらく戦争を経験しているからであろう、この程度の争いは争いとも思わないようである。しかしながら、映像でしか戦争を知らない私からすると、十分激しい争いに見え、戦争の縮図にも思えてくる。

 

ほんの1000円ほどのお会計。

 

だが、伝票を取り合う、手の甲に浮かぶ血管には、本気で相手から奪い取ってやるという熱意が伝わってくる。そこで争うのは高齢者と超高齢者。やはり体力的に僅かばかり有利な、高齢者が勝利する。ぐしゃりとシワのついた伝票を片手に、颯爽と会計へ向かう高齢者。先ほどよりもテンションが下がり、伏し目がちな超高齢者。

 

この構造が私の世代からすると不思議でならない。もちろん、お世話になったから今回は払わせてほしい、というような理屈は理解できる。しかしながら、なぜ相手のテンションを下げてまで、伝票を奪い取ろうとするのか。それはやはり、”私が払いたい”という気持ちを押し付けているからだろう。

 

そう考えると、私が不本意にも発動してしまう感謝の舞は、この「私が払う合戦」と同様の回路をたどって発動し、これまた同様のロジックで迷惑行為へと発展していると推測できる。

 

さらに考えると、私が酔っぱらった末に発動してしまう行為を、シラフの状態で行うとは。

 

老後とは何て素敵なのだ。