喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

フィクションを書きたい

このブログの記事は実際に起きたことや、私が感じたことで出来ている。誓ってこれまでの内容は、すべて事実であると言わせていただきたい。

 

もしかすると、このブログを読んでいる方には、耳を疑うような変人が登場しているように思える瞬間があったかもしれない。だがそれは間違いである。もしそのように思っているのならば、それは私が「正論」という武器を、完璧であるはずがない人間という生物に振りかざした結果である。

 

ともあれ、ノンフィクションを続けていると己の価値観に飽きてくる。「自分はこう思った」という出来事を自分目線で深掘りすることに限界を感じるときもある。

 

このブログの目的のひとつが「自分以外にも同じ人がいるのか」と思ってもらうことである。つまり共感だ。

 

これまで、共感を与えるためには、やはりノンフィクションでなければ説得力に欠けるのではないかと思ってきた。それが、フィクションを避けてきた大きな理由である。

 

しかし、これは裏を返せば私自身とかけ離れた人物には、この「共感してもらい、願わくば『自分だけではないんだ』と安心してもらいたい」という、根本にある願いが届きにくくなっている部分もあるのではないかと思い始めている。

 

そして、もうひとつ理由がある。これは私だけでなく、ある程度社会経験を積み、自分の生活スタイルが社会に馴染んできている人間全般に言えると思う。それは、何も考えずに生活していると、「社会経験で積み上げてきた純度の高い思考回路を崩してまで、相手の価値観を理解しよう」とする機会が減ってしまうということだ。

 

確かに現代人は忙しく、そして効率的に動いている。過去、仕事がうまく出来なかった自分と相手を照らし合わせる。それでも理解できない。こんな状況を、はたして効率化された脳みそが処理できるか疑問である。

 

自分とは違う誰かは、どう思っているのか。ここを追求することによって、この問題にアプローチできるのではないだろうか。

 

やはりそう考えると、フィクションなのではないか、と思う。

 

少々マジメな話しになってしまったようだ。笑いどころがないような気がする。私は中年男性である。これでも、そこそこの社会経験は積んできている。こんなマジメなことも書けるということだ。

 

ともあれ、いつになるかは分からないが、そのうち何らかの形でフィクションも書いてみようかと思う。

 

需要があるのかは、分からないが。

 

 

まずは、皆がうらやむほどの巨乳美女が抱える苦悩について、かな。