スタバでマックブックを開く人たちの正当性。
スタバでマックブックを開く人たちは、なぜ揶揄されるのだろうか。
誰しも、「自分はそこそこな人間だ」と思っている。あの人よりは出来ている、あの人よりはマシだ、と考えることで精神を保っている部分が少なからずあるだろう。
「自分はそこそこな人間だ」。これを実感できる瞬間こそが、スタバでマックブックを開いているとき。スタバという洗練された空間で、マックブックという洗練されたPCを扱う。すると自分までもが洗練された人間であるかのような気持ちになる。
おそらく、こんな方もいるだろう。
最終目標は、スタバでマックブックを開くこと。そのためには、自分は何を趣味にするべきか、自分がマックブックで何かをするならば何をするか、ということから考え始めた方である。
その思考回路をたどった商品の購入は、完璧に正しいものである。その結果、晴れてスタバでマックブックを開くことができるのだ。そのマックブックで何をするかは、最優先事項ではない。このとき最も大切なことは、スタバでマックブックを開き「自分はそこそこな人間だ」と実感できることである。
そう考えると、「スタバでマックブックを開く」というのは、自己肯定感を高める手段のひとつであるということが言える。つまり、「スタバでマックブックを開く」という行為は、本質的な観点から他の行為に置き換えることが可能ということだ。
「良い自動車に乗りたい」と思ったことはないだろうか。それはなぜなのか。見た目がカッコいいからだろうか。機能性を考慮してのものだろうか。理由は一言で説明できる。「憧れ」だ。そして、この「憧れ」には、一言では説明しがたい自己承認欲求が含まれている。自分はあの人よりも良い自動車に乗っていると思いたい、という思想をはらんでいる。しかしながら、「スタバでマックブック」ほど、周囲の目は厳しくない。
他にもある。答えが分かっているにも関わらず、質問をしたことはないだろうか。もちろん、相手の成長を望んでの質問であれば、まったく問題ないだろう。その他に意図があるとすれば、自分が思いついていない発想が出てくるかもしれない、という期待からの質問だろう。もし、この2点を意図せずに質問をしたならば、自己承認欲求に毒されていると言わざるを得ない。「答えられるかどうか、試してやろう」、という自分を上に置いた思想を含んでいる。
上記の「良い自動車」、「質問」のどちらも、「自分はそこそこな人間だ」ということを、自分自身に納得させるための手段である。
スタバでマックブックを開いている人たちは、特別に意識が高いわけでもない。誰しもが持つ欲求が、たまたま具現化された形が「スタバでマックブック」なだけであったと言える。では、なぜこれだけが揶揄されるのか。
私が思うに、それはカッコいいからだろう。カッコいい割りに、マックブック1台を頑張って購入すれば実現可能。しかしながら、気づいたころには時すでに遅し。世間的にはスタバでマックブックを開くことは、イキっているヤツという雰囲気が出来上がっていた。ゆえに手が出せない。
憧れてはいるが、世間の壁を突破できない人々は、スタバでマックブックを揶揄するようになる可能性が高いのかもしれない。
そんな方たちに言いたい。
ちょっと視点を変えれば、全員が調子に乗っていると言えてしまう。だから好きなだけマックブックを使え、使ってしまえ、と。
まぁ私はビビッてマックブックは使っていないのだが