気づけば親父とおなじ金麦
いつからだろうか、気づいたら毎日のように金麦を飲んでいる。金麦は、サラリーマンの財布に優しい、いわゆる第3のビールだ。缶ビールを飲み始めたころは、いろいろなものに挑戦していた記憶がある。その”いろいろなもの”の中に金麦もあったのだろうが、定着するに至った経緯は覚えていない。
自分の中にある金麦の記憶はひとつ、親父がいつも金麦を飲んでいたこと。
今考えると、短気な親父だった。家にいる時はいつも酒を飲んでいたことが、それに追い風を吹かせていたのだろう。
そして、その主犯格が金麦である。
ただ短気といっても、悪い親父ではなかった。人に自慢できるような素敵な思い出はないが、のちに”あれは良かった”と思えるような体験をさせてもらっていたような気がする。だが、こちらの心持ちによっては何もなかったような気もする。
そんな感じの、悪くはない親父。嫌うほどでもない親父だった。
そんな親父が飲んでいた金麦を、今自分も飲んでいる。子供のころ金麦を見ていた記憶が、そうさせるのかは分からない。それに、金麦が特別好きなわけでもなく、他のビールでも別段問題はない。
でも金麦を飲む。
この現象について、心理学的な見解を持ち出したいところだが、なにせ心理学を勉強したことがない。しかしながら、良くもなく悪くもない親父が、これまた特別美味しくもないが、魅力がないわけでない金麦を好んでいた事は、実に身の丈にあっていたように思える。
親父の人生は悪いものではなかったと思う。
だが、“身の丈”などと考えはじめてしまうと、自分はプレミアムモルツを飲めるようになりたいと思ってしまう。アサヒスーパードライでも良い。野心にあふれている。
親父は今も金麦らしい。