喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

昔から「もっと食え」と言われている。

私は幼少期から、結構な痩せ型でして。いざ親戚やら職場の同僚と食事をする機会があると、「もっと食べなさい」などと、まぁ言われてきました。

 

「食べなさい」と言われると、こんなガリガリな私でも、ある程度空気は読めるもんですから、薄ら笑いを浮かべながら、ひと口ばかり食べて箸を置くわけです。贅肉はそぎ落とされていても、他者の気持ちを推し測る感受性は保っているわけです。

 

こんな私ですが、さすがに年齢を重ねてくると、親戚との集まりなどの場では、そのような流れを振り払えるようになって来てはいました。それもそうでしょう。私も社会人になり、一人暮らしをし、今こうして親戚の集まりに参加しているわけです。

 

そうなると、「こいつはガリガリだけど、最低限の自己管理は出来ている」と判断されるのでしょう。

 

誰しも、自分もなかなか大人になったなぁと、なかなか年齢を重ねたなぁと思う瞬間があるかと思います。私の場合で言うと、「好きなロックバンドが解散した」、「通っていた飲食店が閉店した」、「親と一緒に酒を飲めるようになった」あたりがそれになります。

 

このラインで、「親戚にもっと食えと言われなくなった」も来るわけです。なんというか、殻を破ったというか、扶養を抜けたというか、そんな実感があったわけです。

 

ところが社会人になると、また違います。さすがに、食事の席で酒の強要はない。しかしながら、「もっと飯を食え」は今でもあるわけです。この「もっと飯を食え」というのは、それを言っている側、あるいは周囲で聞いている人間は、むしろ微笑ましさすら感じているかもしれません。これぞ「和気あいあい」、という具合に。

 

最悪の場合、日頃の頑張りを褒めたたえ、感謝を表現している光景にも見えてしまうかもしれません。私は気づいたわけです。「扶養を抜けた」と思ったら、「雇用に入っている」ではないかと。

 

親戚からの「大食いハラスメント」を切り抜け、ガリガリを継続していた私は、あの頃のテクニック、「薄ら笑いからのひと口」を駆使しました。ですが、これが意外と通用しないわけです。

 

思うわけです。これは雇用に入ってるな、と。

 

とはいえ、私もやられっぱなしではいられませんから、こちらに渡された食べ物を、隣にいる同期のヤツにシレっと流すわけです。そうすると、その同期は「あれ?」みたいな顔をして、その皿をスッとこちらに寄せるわけですよ。

 

お前はこの一連の流れを見ていただろうと、こんな同期をもって恥ずかしいと、私は思いましたよ。

 

私が逆の立場なら、「大丈夫かい?俺が、食べようか?もうお腹いっぱいでしょ?」と聞いてましたよ。確実に。「(上司)さん、だいぶ酔っぱらってるみたいだね」とか言いながら、もりもり食べたでしょうね。「飲み会は楽しいけど、ノリノリな感じはちょっと…って感じだよね」という具合に、悟り開いてたでしょうね。「●●ちゃん、休みの日は何してるの?」とか言ってキッカケ探していたでしょうね。

 

んで、その職場で1番の美女に、「また何か困ったことがあったら連絡ちょうだい」なんて言いながら、こちらの連絡先を渡していたでしょうね。確実に。

 

ホント薄情な同期だなぁと思いましたよ。

 

私が逆の立場だったら、ここまで踏み込むことが予想できる。

 

 

でも、冷静に考えると、私ってただのガリガリ男性なので、ある意味この同期とは気が合うなと、思ってしまいましたね。

どうやら1年たったようだ。バズりまくった1年だった。

ホントにどうでも良い話しではあるのだが、ちょうど昨年の今頃、どうやらこのブログを始めたようだ。

 

何の思いも、決意もなく始めたに相応しい、実にダラダラとしたブログへの取り組み姿勢であった。その結果、誰もが羨まないであろうスピードでこのブログは成長していったように思う。

 

いかに私がのんびり屋でも、このブログに傾倒していたら、とっくに心が折れていただろう。みんなに見てもらうなど、おこがましい。ましてやバズることなどあるはずがない。

 

日に日に、自分の中での「バズる」の定義が緩くなっていくのは感じていた。というよりも、このブログの成長があまりに遅いので、バズりの定義を広げないととても心が持たないのである。

 

そんなこともあり、アクセス数を確認したとき、前日よりも多く見られていれば「今日はバズった」ということにしていた。ここで大切なのは、しっかりと世間一般的なバズりの定義に対抗する準備をしておくことだ。

 

一般的なバズりの定義とは、何らかの発信が、口コミなどにより爆発的に拡散されている状態のことだ。注意したいのは「爆発的に拡散」という部分である。この「爆発的に拡散」というのは、どのくらいのことか。例えばツイッターならば、数万リツイートくらいのものだろうか。

 

では、その世間一般的にバズっていると間違いなく認められるであろう数万ツイートの内容。これを読む方は、直近で見たその内容を今思い出せるだろうか。

 

どうだろう。思い出せない人が多いのではないだろうか。シンキングタイムを設けても良い。今日はほとんどの方が休みだろう。朝起きてツイッターを見た方もいるはずだ。まずそもそも、数万リツイートのツイートがあったがどうか、それを正確に答えられるだろうか。この時点で怪しい方も少なからずいるだろう。

 

確かに見たはずなのに思い出せない数万リツイートと、見たことも聞いたこともない私のブログ。この両者があなたに与える影響には、さほど違いがないと言えるのではないだろうか。

 

このことから、私のブログが大きく拡散されていなくても、私個人が「今日はバズった」と判断することは問題ないだろう。数万リツイートされたとしても、その内容を思い出せない人にとって、そのツイートは読まれていない私のブログと大差ない。

 

この理論をもとに、2020年はバズりまくった1年であった。

 

 

健康的にバズりたい方は、ぜひお使いください。用法容量はお守りください。あと、このことはあまり周りの人に言わないように。

シャトルランってやったよな

運動不足を極め倒している。昔から痩せ型体型のため、外見からは分からないだろうが、いざ動き始めるとそこらの老人と遜色ない。外見が普通なのにいざ動くと老人。このギャップが与える周囲へのインパクトは相当なものと思われ、おしとやかな文学女子でさえ苦笑いを抑えられないだろう。

 

中学生のころ。体育の授業でシャトルランというものがあった。20メートルの距離をドレミファソラシドの音に合わせて、ひたすら往復し続ける体力テストの一種である。徐々にドレミのスピードが速くなっていき、学生を体力および精神的に追い込む鬼のような仕組みだ。

 

中学生のころには、すでに運動不足に片足を突っ込んでいた私にとって、この競技は苦痛以外のなにものでもない。そもそも、体育館でひたすら20メートルを往復し続けることに何の意味があるのか。まず体育教師からそのあたりの説明がひとつもない。「説明する必要はない。体力の限界を測るためだ」と言うかもしれない。だが、それは間違いだと私は思っている。

 

シャトルランは体力の限界を測るものではない。

 

「ファーストペンギン」という言葉を知っているだろか。エサとなる魚を手に入れるため、海沿いに群れるペンギンたち。しかし、海にはペンギンの天敵となるトドやオットセイがいるかもしれない。その状況でリスクを背負い最初に海に飛び込むペンギン。それがファーストペンギンである。ファーストペンギンはリスクも大きい、しかし一方で、多くの魚を手に入れることが出来るというメリットもある。

 

私のような体力のない人間にとって、もはやシャトルランとはファーストペンギンを決める競技である。早めにギブアップすれば、あとはゆっくり休憩できるわけだ。だが、ここで問題なのは、最初にギブアップすると、ものすごく恥ずかしいということである。

 

そのため、シャトルランの最中には多くの心理戦が繰り広げられている。普段、私と仲が良い友達に体力がないとは限らない。そうなると、まず自分と同等以下と思われる人間のとなりにポジショニングする必要があるわけだ。

 

これを読む方は、私のセコさに落胆しているかもしれない。だが、ご理解してほしい、シャトルランというこの心理ゲームに勝つためには、シャトルランが始まる前から準備が必要なのだ。

 

ポジショニングが済んだら、ファーストペンギン候補のその方に軽く会釈をしよう。普段あまり会話をしないクラスメートであれば、「いやだね…」などのように、ひと言ネガティブな発言をしておいたほうが良いかもしれない。

 

そして、いよいよスタートする。

 

私はすぐに限界が見え始める。何事も早めの備えが肝心である。自分の体力が限界に来てからでは、心理戦で最適な振舞いを出来ない。そのため、ここでひと言ファーストペンギン候補の方に伝える。「あと、どのくらい頑張る?」。

 

これを読む方は、私がとんでもないクズ野郎に見えてきているのではないだろうか。だが、ご理解してほしい。底辺の人間が作り出す世界観とは、往々にしてこういうものなのである。

 

そろそろ呼吸が辛くなってくる。いまだに脱落者がゼロであることに絶望を感じ始める私。そして、ここで仕掛けることを決意するわけである。だが、この”仕掛ける”とき、大きなリスクが発生する。今これを読んでいる皆様が感じている、私に対する嫌悪感。これをファーストペンギン候補のこの方に抱かせてしまう可能性があるのだ。

 

つまり、ここで不用意に仕掛けて「次でやめよう」などと誘うと、ファーストペンギン候補のこの方は反発して、「俺はもっと頑張りたい」などと言ってくる可能性がある。そこを見越すと、次に発するべきは心配する言葉。「大丈夫?」である。

 

「大丈夫?」と心配の言葉を伝えることで、脱落してしまっても「あなたには帰る場所がありますよ」ということを伝える。そして、このワンクッションを置いて「次でやめよう」と誘うのだ。

 

どうだろうか。これが中学時代の私である。

 

たしかに私は救いようのない人間かもしれない。ただ、ひとこと言いたい。このような心理戦を繰り広げたシャトルラン。

 

 

ファーストペンギンは私であったということを。

オシャレパーソナリティ

車を運転する時はもっぱらラジオ。音楽も結構好きだ。だが、CDではなく、私の意志を無視したラジオ番組サイドの選曲が、案外心地よい。

 

晴れた休日、軽くドライブしている最中にラジオから流れてくる知らない曲。これが時折、ぐさりと刺さる。私の場合、自称音楽通の知り合いからオススメされる曲は、もはや聞く前から嫌悪感を覚えずにはいられないのだが、ラジオから流れる曲は素直に受け入れることができる。不思議なものである。

 

先日も例のごとく、運転しながらラジオを聞いていた。そこで流れた曲。それが、普段なら決して自らの意志で聞こうとしないヒップホップであった。これが意外と良い。休日の高速道路をひとり走る車内。私はハンドルを左手で操作し、利き手である右手を使い、しなやかでありつつも軽快な所作でリズムに乗っていた。右手の指先にまで意識を集中し、この曲が表現したいであろう空間の形成に努めた。

 

こうなると、当然この曲が誰のなんという曲なのか知りたいわけである。曲が終わり、パーソナリティがアーティスト名と曲名を発表する。しかし、ここで問題が発生する。たしかに私も油断していた。それも悪かったかもしれない。この手のオシャレな曲をかける番組のパーソナリティは、英語の発音が抜群に良い。知らない海外アーティストの知らない曲名が、ネイティブな発音と流麗な滑舌で放たれる。

 

もはやアーティスト名が何だとか、曲名が何だとかいう次元ではない。単語が聞き取れないどころか、どこからどこまでが何なのか分からない。放たれた言語が英語であったのかも自信がなくなる始末。だがしかし、めちゃくちゃカッコいいという諸刃の剣のような番組コンセプト。

 

しかしながら、冷静に考えるとこの番組のスタッフにも、私と同じくらい英語力が乏しい人間はいるはずである。そのスタッフは、パーソナリティが何を言っているか分からない。そうなると、当然そのスタッフはリスナーに寄り添って「もう少しゆっくり、そして、オシャレをおさえて」と指摘してもおかしくない。

 

だがおそらく、来週もこのパーソナリティはネイティブだろう。その心。英語が出来ないスタッフは、英語力の問題以前に、この曲が誰のなんという曲なのか最初から知っているからだ。だから、英語力が不十分でも意外と聞き取れる。ゆえに指摘はしない。

 

聞き馴染みのない単語は聞き取りにくいものだ。日本人が日本語を聞き取るときでもあるだろう。こんな経験はないだろうか。大学を卒業し、就職も決まりいざ働き始めたのはいいものの、電話対応も思うようにできない。相手の言っていることが理解できないのだ。

 

これは話の内容が理解できないこともあるが、そもそも言葉自体、単語自体の意味が分からないという場合も少なくない。聞き馴染みのない専門用語を脳みそにインプットする作業が必要ゆえ、会話の内容に追いつけない。

 

つまり、我われがオシャレパーソナリティに聞きなれない言葉を、怒涛の勢いで放出されている状況が、新入社員では日常的に発生しているということだろう。

 

 

次あの曲名、あのアーティスト名を知る機会はいつになるだろうか。

 

2回目も聞き取れる気がしない。

個室トイレの鍵は、自分のためにあると思うな

事故物件まとめサイトで有名な「大島てる」さん曰く、トイレの花子さんしかり、トイレにまつわる怪談話の多くが個室トイレに関することである理由は、最後まで”ことを済ませる”から、とのことらしい。誰かに止められることがない。だから個室は、そういうことが多いということだ。

 

また、他にも個室トイレには特性がある。ご存じの方も多いと思うが、個室トイレの扉は、基本的に個室内から押して出る構造になっている。これが逆だとどうか。もし個室内で人が倒れていた場合、外から扉を個室内側に押して開けると、倒れた人が邪魔になり、扉を開けられず救出できない。

 

このように、実に合理的な理由で個室トイレの扉は作られている。

 

先日、例のごとく喫茶店で過ごしていた。私は大の喫茶店好きであり、かつ大のカフェオレ好きであるが、極度のお腹ゆるゆる人間でもある。基本的に、カフェオレを飲んでいる途中くらいでお腹が痛くなり、トイレに駆け込む。

 

その日もトイレに向かい、個室トイレの鍵が開いていることを確認。扉を開けたその瞬間まで、私は忘れていた。この喫茶店の扉が個室内側に押して開ける構造であることを。上記で伝えた、本来あるべき個室トイレの扉の構造とは逆であることを。

 

私はこの喫茶店の常連である。扉の開閉が、本来あるべき方向とは逆であることなど関係なく、無意識に身体が扉を開ける。

 

開けた瞬間、ゴンッという鈍い音とともに、男のプリケツが目に入る。「すいません…」というプリケツ男子の声。不幸中の幸いにも、相手の顔は見えず、相手にも私の顔は確認されていない。

 

私はこれまでの社会経験で培った判断力をフル活用し、とっさにその場を立ち去った。お互いのためにも賢明な判断だったと思う。ここで顔を確認し合っていたら、このあとの喫茶店での過ごし方が変わってきただろう。

 

大島てる氏の言葉を思い出す。「個室では、誰も止める人がいない」。それを証明するかのように、あのプリケツ男子は私が扉を開けるまで、意気揚々と大便をしていた。

 

あるべき個室トイレの構造を思い出す。「個室内側に扉を開けると、中の人が邪魔になり開けられない」。これを証明するかのように、扉は男にぶつかり、見事にプリケツが私の目に飛び込んできた。

 

ともあれ、私がその場を速やかに立ち去った判断も、我ながら素晴らしいとは思うが、相手方の振舞いも素晴らしかったことはお伝えしておきたい。

 

それは、私が扉を開けてしまった瞬間、相手方が「すいません」と言ったことである。顔は見えてないにしても、相手も自分のケツが見られたことは重々承知だろう。そんな状況下でとっさに「すいません」の一言を発することができるのは、ジェントルマンと言わざるを得ない。

 

確かに、根本的には鍵を閉め忘れていた人間が悪いだろう。それにしても、よどみなく速やかな「すいません」だった。ある種、常習性を感じるほどに。

 

 

私はシレっと席に戻り、トイレから白いセーターを着たケツ出しジェントルマンが出てくるのをゆっくり待っていた。

【たぶん、今日もコンビニに行く】おでんが美味しい季節ですね

なんとなく日記でも書こうと思い、じゃあどんな、と考えたあげく、より身近なほうが良いと判断し、じゃあなんだ、と考えたあげく、コンビニになりました。コンビニの日記です。

 

 

〈2020年12月5日 セブンイレブン

ちくわぶ”を頼んだはずだが、家について確認すると”ちくわ”だった。まったく問題ない。ちくわも美味しい。まったく問題ない。

 

思えば、注文方法が想定していたものと違った。私の経験上では、レジ横のおでんコーナーを店員と私で挟むようにポジショニングし、私が食べたい具材を伝える。そして、その都度店員はそれを容器に入れていく。これが普通だと思っていた。

 

では今回はどうか。私はおでんコーナーの前に立つ。そして、店員はレジスターの前で、私が伝えるおでんの具材を都度レジに打ち込んでいく。そして、合計金額が確定。私はレジスターの前に移動し、お金をトレーにのせる。私がお金をトレーにのせている間に、店員はおでんコーナーに移動し、先ほど伝えた具材を容器に入れていく、という方法であった。

 

確かに、この方法だと間違えるのも理解できる。ここで”ちくわぶ”が食べられなかったことに関してグチグチ言うのは大人じゃない。さすがに私もいい歳である。

 

とりあえず酒でも飲もう。

 

〈2020年12月6日 セブンイレブン

間違いは誰にでもあるものだ。冷静に考えると、コンビニおでんのシステムはなかなか間違いに繋がりやすいものだと改めて感じていた。「ヒューマンエラーはない。あるのはシステムエラーだけだ」。キングコング西野さんの言葉を思いだす。

 

自分の気持ちが落ち着いた時に、偉大な人間の格言を我が物顔で放ち、「余裕です」と言わんばかりの態度をとってしまうのが私の悪い癖だ。ホントは”ちくわぶ”を食べたかった。

 

食べたいと思った”ちくわぶ”を一番最初に注文したのが悪かったのかもしれない。ちくわぶ、大根、はんぺん、昆布…と注文する間に、店員さんは”ちくわ”と”ちくわぶ”が混同してしまったのだろう。まぁ、ヒューマンエラーは無いという話しを聞いているので、これはシステムエラーということになる。

 

といっても、もう終わったことだ。気にせず進めよう。

 

私は基本的に1日に1回は甘いものを食べないと落ち着かない主義である。今日もコンビニのお世話になる。そう、昨日と同じ店だ。

 

個人的に最強コンビと銘打っているシュークリームとコカ・コーラを手に取り、レジに向かう。どうやら、昨日おでんでお世話になった店員さんはいないようだ。確かに今は昼間。おでんを買ったのは夜だったから、あの店員さんは今家で寝ているのだろう。

 

ここでふと思う。値段。”ちくわ”と”ちくわぶ”の値段の違いはどうなんだろうか。

 

自宅で”ちくわ”と対面したときの衝撃で、値段のことまで考えていなかった。”ちくわ”なりの美味しさを体験したことで、値段のことなど忘れていた。

 

私は”ちくわぶ”の金額を支払っている。つまり、もし”ちくわ“の方が”ちくわぶ”よりも安かったら、私は損をしていることになる。高級な”ちくわぶ”の金額で、庶民的な”ちくわ”を手に入れたことになる。

 

損をしたのか、はたまた得をしたのか。これは念のため確認しておきたいところだ。

 

「損」か「得」か。これは私だけでなく、老若男女問わず、ジェフ・ベゾス(アマゾン創業者)だろうとラリー・ペイジ(グーグル創業者)だろうと、「損」しているということは共通である。中田敦彦YouTube大学で勉強した。彼らは金持ちだ。それでも「損」に変わりはない。

 

全人類共通の問題と言える本件を、今この目で確かめたい。

 

結論から言おう。以下である。

 

ちくわぶ:88円

・ちくわ :88円

 

 

なかなか良いシステムではないか。

信号待ちも、悪くない

近所に、10歩くらいで渡り切れるくらいに短い横断歩道がある。私はボーっとしながら、歩行者の信号が青になるのを待っていた。だがしかし、横断歩道が短いからか、はたまた、その日が金曜日で帰路を急いでいたからか分からないが、他の人は皆、赤信号を渡っていく。

 

確かに、横断歩道が短いだけでなく、車もまったく通っていない。隙だらけである。正直言うと、私も渡ってしまおうかと思い、足を半歩進めた。

 

想像してほしい。信号を待っている時に、後ろからどんどん抜かされて皆が渡っていく光景を。法律的に正しいのは私である。今パトカーの巡回に遭遇したら、私は胸を張って”おまわりさん”に敬礼出来る自信がある。立派な一般市民であることをアピールさせていただきたい。だが、赤信号を渡った彼らはどうだろうか。すれ違うパトカーからは目をそらし、「自分は赤信号を渡った」という事実が蘇るだろう。

 

無論、赤信号を渡ったことくらいでは、そこまで後ろめたい気持ちを感じない方もいるだろう。しかし彼らは、我ら警察官一味の前では、堂々と己の本性をさらけ出せないということだけはお伝えしたい。非常に窮屈なことだ。赤信号を渡らなかった私にとっては、日本中の警察官が味方なのである。

 

警察官を味方につけている私であるが、相変わらず赤信号を渡る人々に抜かされている状況。しかし、こうも抜かされ続けると、不思議な感覚になる。少しスケールの大きい話になるが、なんというか、世界中の人々が「これが正しい」と言っているにも関わらず、自分は自分の正しさを追求しているような、なんとも勇敢な気持ちになるのだ。

 

「夜と霧」という本がある。この本は、アウシュビッツ収容所での体験記であるが、この作者がまさに勇敢だった。非人道的なことが目の前で繰り広げられると、最初はそれに対し不快感や憎悪を覚える。しかし、人間は慣れてしまう。それが普通となってしまうのだ。だが、その現実に慣れたとき、未来への希望を失っている。

 

この劣悪な環境の中でも、人間性を保ち希望を失わなかったのが、本書の作者である。

 

スケールを大きくしすぎて、私の体験記に戻るのは腰が引けるのだが、次々と赤信号を渡る人がいるなかで、ひとり青信号を待ち続けることは、性質的に上記と類似しているように思う。

 

私も「赤信号は止まれ」という本来のルールに従い、目の前で繰り広げられる「みんな渡っているから自分も渡る」という状況に屈しなかった。これは誇らしいことではないだろうか。

 

しかしながら、さらに想像を巡らせると、ここまでお伝えした私の世界に対する勇敢な振舞いや、強靭な理性がくつがえる場合があることに気づいた。

 

もし信号待ちの時、猛烈にウンコが漏れそうだったとしたら。想像してほしい。あなたが、もし激烈にウンコが漏れそうだったとしたら。そして、その横断歩道はたった10歩で渡れる距離で、なおかつ車がまったく通っていない状況だったとしたら。

 

私なら渡る。

 

「正論だけでは世界は機能しない」などと、ありったけの言い訳をして、トイレに駆け込むだろう。

 

「青信号なら渡って良いのか。青信号でも、危ないときは止まらないといけないんだぞ」などと、ありったけの駄々をこねて、トイレに駆け込むだろう。

 

「赤信号でも、進まないといけない時があるはずだ。救急車に道をゆずる時とか」などと、もはや全ての意識が便意に奪われ暴論をかましながら、トイレに駆け込むだろう。

 

 

お腹が弱いと勇敢な人になれないな、さては。