喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

【たぶん、今日もコンビニに行く】

なんとなく日記でも書こうと思い、じゃあどんな、と考えたあげく、より身近なほうが良いと判断し、より身近といえば、じゃあなんだ、と考えたあげく、コンビニになりました。コンビニの日記です。

 

〈2020年11月30日 ローソン〉

最近ハマっているどら焼きがある。その名も「バターどら焼き」。トラ模様に焼かれたどら焼きの皮は、くちどけが良く、たっぷり入ったバターの塩味が食べる者を飽きさせない。その上、餡子は横綱ばりにドシンとかまえた風味。この餡子が、バターのファーストインプレッションに衝撃を受ける私の肩をそっと抱き寄せ、日本文化の尊さと安寧に気付かせてくれる。

 

今日は、このどら焼きを2個買った。レジを打つ店員さんは40代男性。心なしか作業がおぼつかないと思い名札に目をやると、名前の横に初心者マークがついていた。たしかにレジ打ちのスピードは遅い。レジ店員のテンプレートとなっていそうなセリフもたどたどしい。だが、なんだろうか。顔つきからは、色々な局面を乗り切ってきた強さを感じる。ただレジの作業に慣れていないだけ。ただそれだけ。そう感じた。

 

今日もどら焼きは美味しい。残りの1個は明日食べる。たぶん、それも美味しいだろう。

 

そうであってほしい。

 

 

〈2020年12月1日 セブンイレブン

今日も労働で疲弊した私が入店したとき、その3人はジャンケンをしていた。実を言うと、店の外から、店内にいるその金髪3人組(うち1人は女性)の姿は見えていた。こういう勘はさえている。私が苦手な人種であることは、一瞬にして手に取るように分かった。

 

同時に、若さが持つ無敵感というものを、自分がいつの間にやら失っていたことに気づく。私とて平均寿命からするとまだまだ若い。下手すると彼らとは5~6歳ほどしか離れていないかもしれない。ここには何の差があるのだろうか。今の落ち着ききった自分も悪くないと、思ってはいる。

 

飲料売り場の前で、キレイな三角形をつくりながらジャンケンをする彼らを横切る。

 

〈2020年12月3日 セブンイレブン

日本という、世界でもトップクラスに難しい言語をあやつる島国にて、多様な業務をつかさどり、なおかつ複雑怪奇な人間模様に立ち向かう外国人労働者

 

今日レジを担当してくれた外国人店員は、発音や声量、接客態度も完璧であった。経験上、この3つのどれかが不十分であることが多い気がする。もはや、それが普通という感覚になっているくらいだ。

 

しかし、こうも完璧な振舞いをされると、私のボロが出てしまいそうな気がする。普段、私は別に、「自分は日本に住む日本人である」という具合におごり高ぶっている訳ではない。別に、疲れていて素っ気ない態度になっている訳でもない。

 

ただなぜか、こういう場面では素の自分でいるのが失礼に当たる気がするわけである。

ビビりを受け入れ、生きていきたい。

年齢を重ねるにつれて、ますますビビりになってきている気がする。

 

小さい頃なんかは、よく近所で虫を捕まえて遊んだものだが、今やクモ1匹にも身構える始末。なんというか、「こちらに襲いかかって来たらどうしよう」という己の想像が恐怖心を煽っているように思う。「無邪気」という言葉では片付けられない強さが、あの頃の私にはあったと思う。

 

それが今はどうだろう。「カワイイ女の子と遊びたい」、「モテたい」、「ブログで金を儲けたい」、「朝までパーティーしたい」。こんなことばかり考えている。「無邪気」という言葉では片付けられないクズっぷりである。

 

こんな男がクモと対面したときは、へっぴり腰の内股ぎみでティッシュの箱をブンブン振り回しているのだから、普通に考えてモテるはずがないのだ。いっそのこと、虫を退治するこの私の姿をフィギュアにして、一獲千金を狙いたい。そして、ちやほやされたい。

 

あのフィギュアの人だ、と。そして私の親は、「あのフィギュアの親」になり、このブログは「あのフィギュアの人のブログ」になる。

 

名誉があるとは言い難いが、こんな人生も悪くはないだろう。

 

ここからは、ビビっている人の姿をフィギュアにして、さらに成功したい。

 

ビビると言っても、ヤンキーに絡まれてビビっている姿は、あまり面白みがない。ビビッて当たり前だし、そういう状況下に陥っている人を見ても、見てる側はホッコリとした気分にはならない。危機的状況すぎる。

 

「虫にビビる」くらいがちょうどいい。

 

こうなると、ひとまずの広げ方として、虫へのビビり方にバリエーションを持たせる方法があるだろう。

 

ひとつが、先ほども書いた「へっぴり腰の内股で、ティッシュ箱ぶんぶん」。これはなかなかリアリティがあって良いのではないだろうか。

 

他、よくあるところでいくと、顔の近くに蚊がブゥ~ンと飛んできたとき、二重アゴになりながら手をパタパタとして追い払う姿だろう。世界中の誰もが経験したことがある故、言葉の壁を超えそうな勢いがある。ただ、ジャングルに住む民族などは、虫との共存度合いが我われと一線を画しているため、共感を得られないかもしれない。人間離れした動体視力で虫をヒョイと捕まえ、自然に返しそうだ。

 

また、こんなものはどうだろう。公園で遊ぶ子供が虫を捕まえた。捕まえた喜びを伝えたい、そして、この捕まえた虫を自慢しようと、お母さんに見せる。虫が大嫌いなお母さんは、眉間にシワをよせ、「見せなくていいから」と拒否する。この時、なぜか「お母さんは虫が苦手だからやめて」としっかり伝える光景が少ないように思う。だが、仮にしっかり伝えても、なぜ虫が苦手なのか子供には理解できないだろう。私もなぜ虫が怖くなってしまったのか分からないのだから。

 

このように、笑顔な子供に対して、嫌悪感を抱く親の顔。親子のハートウォーミングな時間に「虫」という生物が入っただけで、途端に「大人と子供」という壁が立ちはだかる。なかなか深みのあるフィギュアではないだろうか。

 

 

なんとか「ビビり」を商売にできないものだろうか。

ヤンキーの隠れざる能力に気づいてしまった

「コンビニがトイレを貸し出しているかどうか」。これがその地域の治安の指標になると聞いたことがある。悲しいことに、都会のコンビニの多くはトイレを貸し出していない。これは治安が良くないと言わざるを得ない。

 

では、なぜトイレを貸し出していない=治安が悪いなのか。それは、シンプルにイタズラや嫌がらせ、トイレットペーパー等の盗難が絶えないからである。つまり、その地域にいるヤンキーのような人間たちが原因ということだろう。

 

そんな一部の人間が犯した悪行のために、我われ一般市民は、トイレを探すためにさまよい歩かなければならない。「ここのコンビニがトイレを貸し出してさえいれば…」なんてことで涙をのんだ方も少なくないだろう。ましてや、都会である。毎日このような事態が発生していると考えると、私のように土地勘のないサラリーマンは怖くてたまらない。

 

つくづくコンビニのトイレを閉鎖に追い込んだヤンキーが許せない。まず、なぜそのような悪行をするのか理解できない。

 

尿意や便意は生理現象である。どう頑張っても無理なときは無理だ。一方、イタズラや盗難などのような手癖の悪さは、理性で抑制できる余地がある。もちろん、悪行を繰り返すヤンキーも、「こんなことを続けるとトイレが使えなくなる」という事ぐらい分かってはいるだろう。

 

そう考えると、彼らはイタズラを我慢できないにも関わらず、ウンコは人並み以上に我慢できるということになる。確かに「ヤンキー」という種族は、コンビニの前でウンコ座りをしているイメージが強い。古くから継承されてきたウンコ座りの文化が、彼らの肛門括約筋をDNAレベルで強靭なものにしているのかもしれない。

 

また、学生時代、特に高校生くらいまでは、学校でウンコをすることに恥ずかしさを感じる。高校でヤンキーをやっている人間が、学校でウンコをすることは、かなりのイメージダウンである。積み重ねてきたヤンキーっぷりに傷がつく。

 

つまり、ヤンキーというのは、ヤンキーになったその瞬間から、ウンコをずっと我慢している種族なのである。

 

日々、ウンコ座りで肛門括約筋を鍛え、ヤンキーの尊厳を保つために、愚直にウンコを我慢する。こうして培われた肉体と精神さえあれば、コンビニのトイレなど必要ないのかもしれない。私のような凡人とは、見える世界が違うようだ。

 

また、別の見方もできる。

 

尿意や便意は生理現象。理性など通用しない。しかし私は、生理現象をコントロールしていると言える光景をテレビで見たことがある。

 

その光景とは、精神統一した僧侶が、股間を全力で蹴り上げられている光景である。蹴られた僧侶は、一瞬宙に浮かぶほどの衝撃だったにも関わらず、まったく痛みを感じていない様子なのだ。

 

尿意や便意のような生理現象を制御することは、これにも通ずるものがあるように思う。頭の中を空っぽにして、何も考えない。ウンコをしたいことなど、完全に忘れてしまう。これにより、尿意や便意をコントロールする。

 

私のように貧弱な人間が、ヤンキーに立ち向かおうなどと思ったことは一度もない。だが今回、ヤンキーの底力を解明したことで、さらに怖くなってしまった。

 

 

彼らは、股間を蹴り飛ばされても、まったく痛みを感じないのだから。

喫茶店にいる保険営業マンはなぜにこうも胡散臭いのだろう。

毎週喫茶店に入り浸っていると、頻繁に喫茶店で保険の営業を行うサラリーマンを見かける。「土曜日なのに、大変だなぁ」と思いながらも、なぜにこうも怪しいニオイを感じるのだろうと思ってしまう。

 

先に断っておくが、がんばる人は皆応援したいと思っている。

 

だがもしかすると、この頑張りが私に怪しさを感じさせる一因になっている可能性がある。

 

キッチリとセットされた髪型、シワひとつないスーツ、磨き上げられたクツ、そして白い歯とそこから放たれる爽やかな息。営業職では、こんなものは当たり前なのだろう。

 

何でも打ち明けたくなるような笑顔に加え、細やかな気遣いとちょっとした冗談。何かスポーツをやっていたとしか思えないほど、健康的な肉体。特別な訓練を受けたかのようにピンとした背筋。営業職とは、こんなものなのだろう。

 

たしかに営業職として、この程度の身だしなみは常識なのかもしれない。だが、私のようにだらしなさを極めつくした人間にとっては、この完璧さの裏に何か良からぬことを隠しているように思えてしまう。

 

また、話を聞いているお客さんが、絶妙に営業マンの胡散臭さを強調してしまっているように思う。

 

ハゲかかった頭に、ジーパンにグレーのパーカーというベタ過ぎる服装。履きつぶされたクツに、紫色の唇から放たれる生暖かい息。THE休日サラリーマン。サラリーマンとはこんなものである。

 

普通にしていてもどこか寂しさを感じさせる表情。生活習慣がそのまま具現化されたようにたるんだ肉体。家庭での肩身の狭さを感じさせるように丸まった背中。

 

素晴らしいほどにイメージ通りの休日サラリーマン。同じサラリーマンとして、よく理解できる。自分のためにもこのサラリーマンは応援したい気持ちだ。このくたびれたサラリーマン感に、私は「幸せになってほしい。営業マンに騙されないでほしい」とさらに思わされる。

 

こうなると、やはり結果として、胡散臭い営業マンに騙されようとしている休日サラリーマンに見えてしまう。

 

茶店という場所も良くないのかもしれない。皆が一息つく空間で、将来の不安を払拭するため話し合っている。さらに、慣れている営業マンが、あれやこれやと保険トークかましているのだ。保険のことなんてよく分からない休日サラリーマンは、そのマシンガントークに乱れ撃ちにされる。

 

イスに腰を下ろし、すっかり落ち着いている私には、この光景が「ただ圧倒されるサラリーマン」に見えるのだ。

 

休日サラリーマン。私は、あなた自身が納得できる保険をしっかり見極めてほしい。

 

休日サラリーマンは契約に納得したのだろうか。なにやらサインをしている。もう後戻りはできないぞ。休日サラリーマンは契約に納得したのだろうか。なにやら写真を撮られている。もうあとから言い訳はできないぞ。

 

お前が培ってきたビジネススキルを営業マンにかましてくれ。

 

そして営業マンをぎゃふんと言わしてくれ。

 

 

私のためにも。そして、希望を。

フィクションを書きたい

このブログの記事は実際に起きたことや、私が感じたことで出来ている。誓ってこれまでの内容は、すべて事実であると言わせていただきたい。

 

もしかすると、このブログを読んでいる方には、耳を疑うような変人が登場しているように思える瞬間があったかもしれない。だがそれは間違いである。もしそのように思っているのならば、それは私が「正論」という武器を、完璧であるはずがない人間という生物に振りかざした結果である。

 

ともあれ、ノンフィクションを続けていると己の価値観に飽きてくる。「自分はこう思った」という出来事を自分目線で深掘りすることに限界を感じるときもある。

 

このブログの目的のひとつが「自分以外にも同じ人がいるのか」と思ってもらうことである。つまり共感だ。

 

これまで、共感を与えるためには、やはりノンフィクションでなければ説得力に欠けるのではないかと思ってきた。それが、フィクションを避けてきた大きな理由である。

 

しかし、これは裏を返せば私自身とかけ離れた人物には、この「共感してもらい、願わくば『自分だけではないんだ』と安心してもらいたい」という、根本にある願いが届きにくくなっている部分もあるのではないかと思い始めている。

 

そして、もうひとつ理由がある。これは私だけでなく、ある程度社会経験を積み、自分の生活スタイルが社会に馴染んできている人間全般に言えると思う。それは、何も考えずに生活していると、「社会経験で積み上げてきた純度の高い思考回路を崩してまで、相手の価値観を理解しよう」とする機会が減ってしまうということだ。

 

確かに現代人は忙しく、そして効率的に動いている。過去、仕事がうまく出来なかった自分と相手を照らし合わせる。それでも理解できない。こんな状況を、はたして効率化された脳みそが処理できるか疑問である。

 

自分とは違う誰かは、どう思っているのか。ここを追求することによって、この問題にアプローチできるのではないだろうか。

 

やはりそう考えると、フィクションなのではないか、と思う。

 

少々マジメな話しになってしまったようだ。笑いどころがないような気がする。私は中年男性である。これでも、そこそこの社会経験は積んできている。こんなマジメなことも書けるということだ。

 

ともあれ、いつになるかは分からないが、そのうち何らかの形でフィクションも書いてみようかと思う。

 

需要があるのかは、分からないが。

 

 

まずは、皆がうらやむほどの巨乳美女が抱える苦悩について、かな。

「ぱいぱいでか美」の素晴らしさを語りたい

いったい全体何の要素が、この方をこれほど魅力的に感じさせるのか、なかなか端的には表現できない。

 

顔について、もちろん私はカワイイと思っている。しかし芸能界。顔がカワイイ人を探せば他にいくらでもいる。そして、名前のわりにはそれほど大きくないオッパイ。Fカップ

 

そうなると、この方の内なるものが私たちを魅了しているとしか考えられない。

 

「ぱいぱいでか美」という名前。この名前には、どういった意味が込められているのだろう。申し上げたように、この方はものすごくオッパイが大きいかと言われると、そういうわけではない。

 

ここにどういった心理があるのかを考察したい。そうすることで、この方の芸能活動におけるビジョンを紐解けるかもしれない。ビジョンを明確にできれば、なぜ私たちが「ぱいぱいでか美」に魅了されるのか、その納得できる理由が分かるかもしれない。

 

一般的に、Fカップは決して小さいサイズではない。街ですれ違う女性の、おそらく半数以上はFカップよりも小さいだろう。では「ぱいぱいでか美」という名前は、そのFカップ以下の女性にフォーカスして、「私はあの人達よりもオッパイが大きい」ということで、名付けられたものだろうか。

 

それは間違いなく違う。

 

その由来で芸名を付けるような人物であった場合、どこか謙虚さに欠ける振舞いが顔を覗かせてしかるべきだ。「どうだ、私のオッパイは」となってしかるべきなのだ。しかし、「ぱいぱいでか美」には、傲慢さはおろか、謙虚な中にも相手に気を使わせすぎない絶妙なバランスがある。

 

ゆえに、Fカップ以下にフォーカスしていることは誤りである。

 

こうなると、「ぱいぱいでか美」は自分よりもオッパイが大きい人を念頭において、名前を付けた可能性が濃厚だ。ここにはどういった理由があるか。

 

結論から言おう。それはリスペクトである。

 

「私もあんな風になりたい」「素敵だな」という尊敬のまなざしが含まれている。つまり、「ぱいぱいでか美」は、自分よりもオッパイが大きい人がいることを認めつつも、それに落ち込むことなく、むしろ追いつけ追い越せと自らを奮い立たせているのだ。

 

そういった考えのもとつけられた名前。それが「ぱいぱいでか美」である。

 

実際、この方は名前に恥じない活動をしていると思う。バラエティ番組では、いじられキャラだ。ほんとに傷ついてしまう時もあるかもしれない。それでも果敢に前に出て、役目を務める。

 

いじりの一つで「ブサイクだ」と言われることもあるだろう。そんな中でも、自分を応援してくれる人を立てつつ、笑いに変える。素晴らしい。

 

これだから、私たちはこの方に魅了されるのだろう。

 

 

私には、とてつもなく巨乳に見える。

イエス・ノーで答えさせてほしい 2

以前、このブログに「イエス・ノーで答えさせてほしい」という記事を書いたことがある。これは、毎日コンビニに行く私が、店員さんからの「レシートが必要かどうか」の問いに対して、可能なかぎり「はい」か「いいえ」で答えたいという、わがままな願望を記事にしたものだ。

 

そしてこの度、新たに同様の事象が発生しているため、記事にしたためたい。

 

舞台は、またしてもコンビニ。レジ袋が有料化になり久しい。このレジ袋有料化に伴い発生しているのが、「レジ袋が必要かどうか」のやりとりである。そして、ここでも驚くほど進歩のない私の人間性が発揮される。

 

やはり「はい」か「いいえ」の返事で、今の自分にはレジ袋の必要なのかどうかを伝えたいと思ってしまう。それほどまでに私は、コミュニケーションが苦手なのだ。

 

しかしながら、もちろん店員さんには、私がそんな風に思っていることなど分かるはずがない。そうなると、「はい」「いいえ」では、答えようのない言い回しで、レジ袋が必要かどうかをたずねてくる。

 

今回は、コミュ障でありイエス・ノーで答えたい私が、つい困惑してしまった「レジ袋が必要かどうか」の質問について、ランキング形式で綴っていきたい。

 

まず第3位は、「レジ袋はどういたしますか?」である。

 

正直言うと、何の変哲もない普通の言い回しである。そして、この質問形式に出くわすことは極めて多い。だが、これに対し「はい」「いいえ」で答えることは出来ない。「お願いします」または「必要ありません」が、最もポピュラーな答えだろう。

 

読者の皆様の中には、「お願いします」くらい言えるだろ、と思う方もいらっしゃるだろう。舐めてもらっては困る。みんなが当たり前のように出来ることを出来ない人はいるのだ。まず、私が「お願いします」と言っても声が店員さんに届かないことが多い。おそらく声が小さいのだろう。

 

店員さんの立場からすると「レジ袋はどうしますか」と聞いたのに、客からは何の返事もない。当然もう一度たずねる、「レジ袋はどうしますか」。

 

再度レジ袋の必要性について問われた私は、「聞こえていなかったのか」と思い、少し落ち込みながら、今度は強く首を縦に振り「お願いします」と伝える。そして、ようやくレジ袋が手に入る。

 

こんな客ばかりでは、店の売り上げに響く。そう思うと同時に、イエス・ノーで答えさせてほしいと思ってしまう。

 

 

次に第2位は、「このままでよろしいでしょうか」。

 

まず「このままでよろしいでしょうか」とたずねてきた店員さんの真意は、「お客さんは、レジ袋が必要なのかどうかを聞きたい」というものである。

 

つまり、客として「このままでよろしいでしょうか」とたずねられた場合に、忖度し倒したときの回答は、「レジ袋お願いします」である。

 

しかし、これはキレイな会話が成立しているとは言えないことが分かるだろう。では、質問に対して素直に答えるとどうなるか。

 

「このままでよろしいでしょうか」

 

「いいえ」

 

これである。だが、もし客にこんな風に答えられたら、この店員さんはイライラしないのだろうか。さらに、「いいえ」と言われたら、店員さんは「では、レジ袋ご用意いたしますね」と一言そえる必要も出てくる。実に非効率的である。

 

まぁ、私は「このままでよろしいでしょうか」と聞かれ、最大限に脳みそをフル回転させて「あ、ふぅ、ふくろぉおねがいします」と言うことが出来たので、心の中で「よくやった自分」と褒めちぎったのだが。

 

 

最後にお待ちかねの第1位。「レジ袋はお持ちでしょうか」。

 

これは、第2位の進化系と言って良いだろう。「このままでよろしいでしょうか」と聞かれた時は、すさまじいIQを発揮した私だが、この質問を投げかけられた時は3秒ほどフリーズし、全身をまさぐり、「どこかのポケットにレジ袋が入っていただろうか」と思い悩んでしまった。

 

そして、「あ、ないです」と答えたのである。そして、店員さんは「袋ご用意してもよろしいですか?」と言い、私は「はい」と返事をした。

 

もしかすると、こんな小さなことで悩む必要はないのかもしれない。私の中でルールとして、どんな質問にも「袋おねがいします」と答えるようにすれば、どんな質問が来てもレジ袋を手に入れるという目的を達成することは出来る。

 

しかし、どうしても気持ちが悪いのだ。「レジ袋はお持ちでしょうか」と聞かれると、まっさきに「持っていない」という言葉が頭に浮かぶ。

 

さらに、「ここで”持っていない”と答えると、ぶっきらぼうな感じが出るのでは」と同時に思ってしまうのだ。すると3秒ほどフリーズして私は見事に「変な客」になってしまう。

 

これは私だけなのだろうか。

 

 

やっぱコミュニケーションって難しい。