喫茶マンスペース

今日も特になにも起きず。だがそれで良い

「お題スロット」に頼らせてほしい

マッサージに行き、女性じゃない店員に身体をまさぐられていた。受付で初対面したその方は、「こちらへどうぞ」とベッドへ案内してくれた。怪しくなる雲行きには気づかないフリをしていた。そして、当初の期待とは裏腹に、私はその徹底的に女性じゃない店員に全身をゆだねる運びとなった。

 

最近、疲労の蓄積が顕著に表れてきたため、マッサージに来たわけだ。しかし、どうも腑に落ちない。確かに、マッサージ師の商売道具が「握力」だということは承知している。女性じゃないほうが、こりをほぐすためには良いだろう。しかし私は、こりと疲れをほぐして欲しかったのだ。こりは握力でどうにかなるが、疲れは握力ではカバーしきれない部分があるように思われる。疲れの対極にあるものは、癒しだ。女性じゃない店員が、同じく女性じゃない客に、どのようにしてこのマッサージという競技のなかで、癒しを表現できようか。

 

しかし、普通に考えれば私が悪い。女性じゃないリスクがあることは承知していた。単純に50%の確立でないことは、統計学に精通していない私でも容易に想像できた。容易に想像できた理由は、統計学に詳しくないから分からないが、とにかく、統計的なロジカルでは語ることができない何かが私をかりたてたのだ。その女性じゃない生物を拒絶する何かは、おそらく統計学では絶対にたどり着けない。おそらく、保健体育の領域だろう。

 

その保健体育ではドンピシャに説明できる何かに従い、私はまんまと入店してしまったのだ。そして、料金分の満足感は得られないまま、マッサージは終了した。非常に女性らしさに欠けた、フェミニズムを腕力で圧倒するような施術であった。

 

伏し目がちでベッドから降り、店員に気の抜けたあいさつを済ませ、店から出た。すると異変に気付く、入店前とは明らかに違う。太陽の光が全身にしみこみ、鳥のさえずりが心に響く。歩く人々は、すべてを新鮮に感じる赤ん坊のごとく、この街を楽しんでいる。「感謝」とは、自分が他人にやってもらったことが当たり前じゃないことを、自分自身に気づかせるための行為だ。自然、街、人が気づかせてくれた。

 

今自分は、とてもスッキリしている。

 

ひとあし遅かった。店から出るとき、なぜ自分はしっかりあいさつが出来なかったのだろうと、後悔した。そこで、今自分の感謝の意を表すにはブログだろうと思い、さっそく内容を考える。しかし、感謝を表すと言っても、それだけでは自分が満足できるブログにならない。

 

どうしたものかと悩んでいるとき、「お題スロット」なるものがあることに気づく。どうもこれは、ネタ切れに悩む庶民を救済するものらしい。この時点で「ありがとう」しか書くことがなかった庶民ブロガーの私は、なにかヒントはないかとギャンブル依存者のような手さばきでスロットを回した。

 

そして今、「お題スロット」から着想を得て、感謝を込めたこの記事を書いている。

 

次の休みの予定は決まった。

 

お題「もう一度行きたい場所」